ネオンに寄せる期待

 
 
美しい首都 東京の実現に向けて
石原 慎太郎
東京都知事

 私の好きな作家の一人であるアンドレ・マルローがフランスのド・ゴール政権で文化相をしていたとき、パリの街をきれいにしようと、思い切った改革をしました。例えば、パリのネオンサインはマルローの命令で二色か三色に決められたのです。すると、ネオンサインがモノクロームになって逆に目立つようになりました。また、煤で汚れていたパリの街の煤落としをさせたのも彼でした。完全に真っ白にはなりませんでしたが、残った黒い部分とのコントラストや、建物や壁のレリーフなどで立体感が出て、好評を博したそうです。
 東京都では、2016年のオリンピック開催を目指し、水辺周辺など景観上重要な地域を指定して、建築物の色彩や屋外広告物の誘導を一体的に行うことにより、東京をさらなる成熟を遂げた美しい街へ生まれ変わらせていきたいと考えています。
 幕末の江戸から明治初期にかけての東京を訪れた外国人の心には、美しい都市としての印象が深く刻まれました。私は、一国の首都は、世界に誇れる美しい街並みや風格のある景観を有していなければならないと常日頃から強く感じています。
 貴協会との協力のもと、行政と業界とが手を携え、かつての東京の美しい景観を取り戻し、首都東京ならではの魅力ある景観が実現することを熱望して止みません。

表現に幅を「ネオン」
栄久庵憲司
GKデザイン機構 会長

 LEDは世界的になった。華やかで、キラキラするのが特徴だ。東京の六本木や銀座などはその最たるものだ。だが、 LEDは小粒ながら輝度が高く色に変化がないせいか、どこにあっても同じように見えるのが残念だ。どの町もお祭りのようで、一向に差がない。どこか工夫がいる。その点ネオンは表情が多岐でよい。
 戦後のひと時は、ネオンのオンパレードだった。それなりに表現しやすく、安い経費でできたことも、繁栄の一助となったのであろう。安くて表現に幅があることは文化発展の条件だが、誰にでも設置ができるものではなかった。
 私は芸大に入る前、ネオン屋でアルバイトをしていた。店の主人はネオンのプロだったので、私のつたない絵もみなネオンにしてくれた。ネオン技術を何も知らない私にとって、まさに尊敬の的だった。ただ納め先に赤線地域が多かったので、その表現には苦労していた。敢えていえばちょっと明るすぎて女性の美しさの助長に欠け、もっと哀愁に富むものであって欲しかった。つまり放電管に強弱が欲しかったのである。
 それにしても LEDの光に比べれば、ネオンのほうが遙かに変化に富んでいる。ネオンと LEDをともに使うのも表現の幅を広げる方法の一つではなかろうか。
 ネオンはアメリカを代表する店頭のイルミネーションだが、今でも盛んなようだ。ヨーロッパではパリのムーランルージュのネオンは、人懐かしくてなかなかよい。アメリカのラスベガスでは、大規模なネオンの使用方法に驚かされる。ネオンの表現の幅を拡げているのが壮観である。一見に値する。日本では回る観覧車のネオンが好例だ。
 最近はマニュアルが進歩しているだけに、ネオンキットをワンパックにして、一般に販売するのもよいだろう。ネオン芸術の再来も夢ではない。もっと一般家庭にはいることで、ネオンの芸術性を高めることができるというものである。

心に残るサイン
ジョン・J・エルウッド
日本コカ・コーラ(株)元副社長

 100号記念特別号の貴誌に寄稿させて頂けることを非常に光栄に存じます。
 私はコカ・コーラ社でマーケティングに携わった者として、ネオン広告および広告媒体としてのネオンのパワーについて良く理解しております。コカ・コーラ社では世界中の都市に設置した非常に効果的な自社のサインをネオン・スペクタキュラーと称しております。
 屋外広告に関るネオンの技術については、日本は常に世界をリードしてきた国のひとつです。コカ・コーラ社はこの利点を活用し、日本各地に数々の心に残るサインを設置してまいりました。
 在職中、私はビジネスでソ連などの共産圏諸国によく旅行しました。暗く短調な共産圏から日本に戻った時に、明るいネオンサインで迎えられたことを毎回嬉しく思ったものでした。
 これからも日本のネオン業界は新しい技術を取り入れ益々発展を遂げられること、また、このたいへん効果的な広告媒体で日本の都市を照らし続け活気づけて頂けることを確信しております。

私がネオンに期待するもの
面出 薫
照明デザイナー・武蔵野美術大学教授

 都市や建築の照明デザインを志した30年ほど前から、ネオンチューブから発せられる様々な光にはいつも心惹かれるものを感じていた。とりわけヨーロッパ各都市を徘徊し始めた70年代の終わりには、パリ、ミラノ、ロンドンといったデザイン先進都市の夜は控えめでウイットの利いたネオンの輝きに満ちていた。ヨーロッパの匂いがシンプルで洒落た街角のネオンから漂っていた。
 私はその70年代のネオンデザインのエスプリを日本にも期待したが、その期待は裏切られていく。日本に代表されるアジアのネオンは欧州のものと大違いの展開を見せる。戦後の日本の社会がそうであったように、日本のネオンサインは巨大化し光の増量を重ねていったのだ。よく私たちは都市デザインで「地と図の関係」ということを口にするが、日本のネオンサインは正に「光の地」を作ることに邁進し、「光の図」を作る欧州のものに対比した。これからは日本のネオンは光の量より質を目指さねばならない。ネオンチューブはもとよりその芸術的で絵画的な表現を得意とするモノだ。明るいばかりのネオンではなく、時に周囲の暗さをうまく利用した光のアイコンになるべきだ。光と影をうまく活用したネオンサイン。そんな日本の伝統的な光の美意識に触れたものが出現してきて欲しいものだ。
 ところで時代は21世紀。照明デザインの世の中はLEDだ有機ELだと奔走する。確かに地球規模でエネルギー問題に取組んだり環境に優しい街づくりを心がけねばならないので、新光源の開発は大いに歓迎される。しかし蝋燭や白熱灯のような原始的な光源は決してなくならない。つまり世の中がハイテクになればなるほど人の心はローテクを求めるものだ。地球上の人々の生活は、明るさを求める場面と美しい暗さを求める場面の二極化に向かっている。さてそれではネオンの美しさはいずこへ。
 これからはネオンの持つ本来の温かさやローテク感覚をうまく生かし、しかも様々な先端的制御技術をうまく活用することが大切なのだろう。今だからこそ70年代の欧州に匹敵するネオンの魅力を、日本のあかり文化に乗せて世界中に発信できるのではないだろうか。

もっと光を!
西川りゅうじん
マーケティングコンサルタント

 ゲーテは「もっと光を!」という最期の言葉を残して天に召されたが、人間は光がなければ生きていけない。人間のみならず、動物も植物もあらゆる生き物は、昼も夜も、光を求める習性を持っている。
 ネオンは、一つの産業であり、且つ人間が創造した文化であり芸術である。国や民族によって異なる食文化があるように、個性豊かな“光文化”が存在する。
 日本人は古来から夜の明かりの美しさを愛でてきた。十五夜のお月見をはじめ月明かりを尊ぶ伝統を大切にしてきた。清少納言も「枕草子」で、「月のころはさらなり、やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りてゆくも、をかし」と、天然ネオンとも呼べるホタルの点滅の美をたたえている。また 、人々は、焚火で暖を取りながら絆を深め、松明を照明とし、烽火を合図とした。今も多くの人々が見物に集まる、奈良東大寺の若草山の山焼きや二月堂のお水取り、京都の大文字をはじめとする五山の送り火は、千年以上の歴史を有する風物詩である。
 その後、植物油やロウソクを燃やして明かりに利用するようになると、灯火、行灯、ぼんぼり、提灯、灯籠、走馬灯、精霊流し、影絵など和風光文化の源流が生まれた。それらは単なる照明としてだけではなく、権威や情感の演出、寺社や商家のサイン告知、遊び、鎮魂といった様々な目的のために作られた。
 近代になると文明開化の象徴としてガス燈が設置され、日昼しか見えなかったサインが日没後も見られるようになる。そして、戦後、日本の飛躍的な経済発展にともない、商品宣伝や集客誘客のための屋外広告媒体としての電飾が、街を彩る時代が到来する。
 観光とは光を観ると書くが、神戸や函館の百万ドルの夜景、テーマパークのエレクトリカル・パレード、東京タワーやレインボーブリッジのライトアップ、X’masシーズンの丸の内ミレナリオや神戸ルミナリエ、六本木ヒルズけやき坂の LEDイルミネーションなどなど、光のページェントが街のエンターテインメントとして脚光を浴びる。現在、私も日本カジノ学会の常任理事としてカジノ法制化に努めているが、その一つの究極の形がラスベガスであろう。しかし、一方、飽食ならぬ“飽光”の時代となり、奈良の燈火会のように灯籠を敷き詰めるなどした原始的なライトアップも逆に人気を呼んでいる。まさに現在の日本は陰陽の光の文化が百花繚乱である。
 神仏の教えを師から弟子へと伝え絶やさないことを、伝統ならぬ“伝燈”というが、日本の光文化の燈を絶やさず、日本発のネオンを創造し続けて頂きたい。何故なら、「もっと光を!」と人々が心で叫んでいるからだ。

Neonと出逢って。
安彦哲男
ネオンアーティス

 私がネオンの光を意識したのは1979年、冬のヨーロッパでした。サッカーの試合を観戦したり、地元の人とサッカーをしたりしながら、いろいろな街を放浪していたときでした。サッカーの練習の後、寒い夜に見たcafeのネオンサインは、しっとりと赤く、あたたかさを感じビールを飲みに入りました。ヨーロッパの光の使い方、ネオンの光は、蛍光灯文化の中で育った私には、凄く新鮮でした。
 1980年L.Aで歌手フランクシナトラのプロデューサー ドン・コスタという方の家に、ホームステイさせていただくことができました。BEVERLY HILLSの近くには、オシャレなレストランや店舗がありました。より強く光る、ネオンを意識する環境にいました。ビルボードには、青い空、パームツリーとマッチしたネオン。映画にでてきそうな、ネオンサイン。 
 バーの中にも、ハート形のネオン。この店は、どうしても行ってみたかったので、入るとゲイの人達で溢れていてびっくりしましたが……。
 メルローズのストリートには、NEON SHOPもありました。いろんなネオンが飾ってあり、自分のオリジナルも創ってくれました。ネオンの光自体にも魅せられましたが、ネオンのある空間で光を感じることが好きでした。アメリカを、自由な旅を、強いエネルギーを感じました。
 1988年にアメリカのWISCONSIN州の小さな街にあるNEON SCHOOLでネオンの作り方を勉強させていただきました。ネオンには、空間を大きくかえる力があることに気がつきました。 
 光が見えていないことにも気がつきました。光源と光が届く範囲に存在する物体が見えているのであって、空中に浮遊する光は感じているのだと。
 1989年より、ネオンの光を一つの素材として、鉄造型、石膏等と組み合わせ、作品制作発表させていただいておりましたが、1955年以降は、ネオンの光を使用した作品を空間にインストールし、ENERGY&MESSAGEを感じる空間作品を創造させていただいております。
 空間を創造させていただくようになって、波動の違いこそあれ、音も重要な要素であることを感じています。光や音に魅せられた人との出逢いが増え、楽しい刺激的な人生を送らせていただいております。
 ネオンとの出逢いに感謝!!!です。新しい様々な光が開発され、街にあふれています。
 しかしネオンは、独特の個性ある光です。光の線で絵も文字もかけ、それ自体が発光します。
  普通のライトで演出された空間を、月とすれば、ネオンの光を使用した空間は太陽ある空間です。それだけインパクトの強いものなので、使い方をまちがえれば、とんでもなく嫌な空間ができあがりますが……。
 「強さ」、「やさしさ」、「温かさ」、「冷たさ」、「エロさ」、はやりの「ちょい悪さ」も表現できます。
 私がはじめて、ネオンの管を曲げて、20年近くたちましたが、まだまだネオンの光に魅せられてます。ネオンの光を使って創りたい空間が一杯在ります。ネオンの光に無限の可能性を感じています。
Keep on smile!
 


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