私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.73
「ネオン」って何故だか艶かしい!
     中国支部 支部長  (有)みつば工芸 武海 清

武海 清さん 今回NEOSへの投稿の機会を頂きました事を先ずもってお礼申しあげます。何で自分が…?まだまだ諸先輩方たくさん居られるので、この機会がやって来ようとは夢にも思ってもおらず、10年か20年先だろうと高を括っておりました。(笑)
 いざ、パソコンに向かって題名・名前を打ったまでは良かったのですが、次が出てこない。さぁ困った!これからが本当の“奮戦記”なのだと…。
 冒頭にも書きましたが、業界の中ではまだまだ若輩者。と感じつつも、今年で50歳になりました。50歳と言うと「初老」と呼ばれるようになるわけですが、一説によれば現年齢の8掛けが現代人の精神年齢だそうですから、その計算からすれば40歳!まだまだ若い。ハナ垂れ小僧の1人かもしれません。
 当社は昭和29年に先代の社長(私の父親)が創業、今年で53年目を迎えます。創業当時は、ネオンは手掛けてはおらず、もっぱら商店街の看板や野立て看板の制作・取り付けを行っていたようで、看板屋だったわけです。
 景気の上昇と共に、この業界も隆盛を極め、大阪万博の数年前から地方でもパチンコ店の出店ラッシュに沸きました。当社もそれまでは、ネオンは外注に出していたようですが、岡山のデンショクさんや関西電飾さんらに誘発され、ネオン工場を新たに設け、管の制作を始めたのが昭和40年頃だったそうです。
 私が物心ついた頃「ネオン屋」って「看板屋よりすごいんだ!」と訳のわからない想いを持ったのが、最初のネオンへの感想だったかもしれません。なぜそう思ったのかは定かでありません。ただ会社に遊び?に行くと、ネオン工場から何ともいえない光が漏れてくるのです。とりわけネオンを代表する色である「透明赤」が今でも私の記憶に鮮明に残っているせいかもしれません。
 そうは言っても私は直接ネオンを曲げることが出来ません。「毛利家の三本の矢」ではありませんが、私には支えてくれる力強い味方の「弟」が2人おります。次男が電気工事士の資格を、三男が広島での修行後に米子に帰って来てからは、ネオン管を製作してくれています。今は兄弟三人で自分の得意分野をしっかりこなし、一丸となって頑張っています。
 バブルの頃、業界的には地方にあってもパチンコ店の出店ラッシュがやってきました。最盛時には年間8店舗もの工事があったり、米子のみならず島根県の浜田や岡山県の倉敷まで取り付けに行ったりと、徹夜の日々が続くこともしばしばありました。今では本当に懐かしい。あの頃が…。
 余談ですが、私が大学から帰ってきたのは昭和54年。ですからオイルショックを知らないためノーコメントとします。(汗)
 さて、話は変わりますが、私が長男という事もあり父は事あるごとに業界のいろいろな会合等に私を連れて行ってくれました。ちょうど、昭和ネオンさんの50周年の記念パーティーで東京に行く事が出来たのも父の親心だと思います。見るもの全てが新鮮で驚くことばかり。“百聞は一見にしかず”とは正にこのこと。銀座の街並もテレビで見るそのままでした。屋上に取り付けられているネオンサインは戦後からの脱却のシンボルだったのかもしれません。
 先代の社長は、旅行が大好きでそれを兼ね備えた協会の全国大会へは毎年のように参加しておりました。その際には私もよく同行したものです。そのお陰で若い頃から協会活動に参加できたことは感謝しております。その結果かどうかはわかりませんが、2000年より本部理事を、2年後の2002年からは中国支部長もさせて頂く事となりました。50名の中国支部会員のお世話は決して楽なものではありませんが、会員の皆様方のご協力でなんとか今日まで務めさせて貰っております。
 今までの、協会活動のなかで一番印象に残っているのは、やはり平成13年青年部全国組織の設立に参画した事です。当時の会長でおられた廣邊名誉会長の肝いりで準備が進んでいき、当時はまだ青年部と呼ばれる年齢だった私は規約の素案づくりを担当しました。他団体の青年部の規約等参考にしながら、何とか出来上がったのが今の規約に他なりません。
 設立時には副代表世話人をもさせて頂き、その活動を通じ全国に多くの仲間ができ、良いネットワークが出来たのは正に私の宝物となりました。全国の青年部の皆さんも積極的に活動に参加され、自分のネットワーク作りはもとより、若い力で未来ある協会にして貰えれば…と強く願っております。
 景気の低迷・格差が広がる中、我々の業界もその真っ只中にいるわけですが、「看板もネオンも絶対無くならんけん。(方言)」とよく父が言っておりました。現状把握・危機管理をしっかりやっていけば、生き延びる事もできるのではないでしょうか?
 この仕事に携わって、未だ30年にも至っておりませんが、中身は大変に濃い28年だった?と考えます。「ものづくり」というのは、携わった全ての人の結晶です。汗も涙も詰まったもの、愛情をも包み込んだものではないでしょうか。ネオンこそ、それを象徴しているようにほかなりません。取り付けを終えたネオンサインが自ら照らす街並み、やはり何故だか艶かしい。
 最後にこの誌面をお借りし、お名前を挙げればきりがなく、先代、私そして、みつば工芸にご指導・ご鞭撻とご協力いただいた皆様方に心より感謝するとともに厚くお礼申しあげます。本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申しあげます。



Back

トップページへ戻る



2007 Copyright (c) All Japan Neon-Sign Association