私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.76
現在進行中
     中部支部 東宝ネオン(株)  夏目勇示

夏目勇示さん 思い出してみれば、私が、平成4年に東宝ネオン株式会社に就職してもう16年が過ぎようとしています。祖父が戦後、満州から日本に帰り現地で得た知識をもとに浜松で創業した会社です。
 小さい頃から、父・母・祖父は自分が起きる前から会社に出掛け、自分が寝てから帰ってくる毎日でした。休日には会社の工場についていき、珍しいものをいろいろと見せてもらい、わくわくした事を覚えています。
 その後、中・高校生時代はサッカーに明け暮れ、大学時代は横浜で電気工学を学びました。卒業後は何の縁か、今考えると不思議ですが、大手レコード会社に就職しました。当時、日本の大スター「美空ひばりさん」が他界し私達社員には“ひばり特需”と言ってボーナスをいただきました。やはり偉大な歌手だったんだと改めて思いました。そんな時期を3年ほど過ごした頃、家族から浜松に帰ってこないかという話がありました。
 家業を継ぐにも、何も知らずにではいけないと、父の知り合いで現CRの役田社長さんの御紹介もあり、(株)ウララネオンさんに短い間でしたが、お世話になることができました。私がネオンに携わる始まりでした。
 以前のデスクワークと違い、毎日が目新しいことばかりで、一日がたつのがとても早かったように思います。
 東京の工事はいろいろ大変で、昼間工事ができないので夜間の仕事が多かったり、高所作業車が使えないので、縄梯子を掛けて作業しました。某航空会社飛行場の現場の取り付けをしたり、新宿では怖い人に脅かされたり…いろいろと貴重な体験をさせていただきました。
 浜松に帰って来てからは、立場的にも営業・製作・取り付け・デザイン等すべてこなさなくてはなりません。看板の出来るすべての道筋に携わる分大変ですが、完成した時の感動はこの上ないものです。
 思い出に残っている仕事は、東名高速道路から見える工場の屋上に4M×20Mのシート看板を基礎工事から行うものでした。昔から付き合いのある基礎工事屋さん、重機屋さん、鳶職さん、従業員の皆さんにいろいろと教えてもらい、無事完成しました。今でも東名を通るとあの頃を思い出します。看板屋というものは知識が豊富でないと出来ないと改めて感じ、仕事の傍ら電気工事士、広告士などの資格も取りました。
 最近、サインに使用するネオンは減ってきているように思われます。また、建築基準法の改正による建物の減少、屋外広告物の規制などにより、サイン業界の仕事の全体量も減っているようです。しかしながら、技術の向上でLEDやCG出力など新たなものが出て来ています。もっともっと知識を広げていかなくてはならないと実感しています。
 ネオン組合では、全国青年部が立ち上がった時、中部支部の代表世話人に推薦していただき、(合格点には至りませんが)7年勤めさせていただいています。お陰で中部支部はもちろん、全国にも同世代・同業者のいい仲間が増えました。さまざまな地方の様子を聞くと大変励みにもなり、勉強になります。
 忙しい毎日を送っている中で、唯一のストレス発散はスポーツをすることです。残念ながら、ゴルフを楽しむ余裕はなくなりましたが、今、小3の長男が所属する小学校のサッカー少年団のコーチを務めています。ここでは子供たちと一緒にサッカーをして楽しんだり、自分が小さかった頃、コーチに教えていただいたことを伝えたり、人に物事を教える難しさを学んだりしています。子供たちから学ぶことも非常に多く、驚くこともあります。小さい頃、体育の先生になりたかった夢が少しかなったようです。そして、休日には自分が両親にしてもらったように、大きくなったら手伝ってもらえたらというささやかな願いもこめて、長男と一緒に工場で作業をしたりしています。
 先代の社長(祖父)が他界して、三年が経とうとしています。時代を築き上げた先代や今の社長、これからの時代をともに歩んでいく、いい取引先・いい下請けさん・いい従業員・いい仲間・いい家族に恵まれ、この16年が過ぎました。この先どのような時代が来ようとも作る喜びと感謝を忘れず、仕事に取り組んで生きたいと思います。



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