私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.77
ネオン業から社会に羽ばたく
     関東甲信越支部 (株)日高ネオン  梅根憲生

梅根憲生さん脱サラ決意まで
 東京オリンピックが開催された昭和39年に、大学を卒業して、当時は国際的なAV機器メーカーであった日本ビクターに入社しました。小さい頃から海外に憧れ、大学の商学部で国際貿易を専攻し、音楽が好きなこともあって、日本ビクターでは貿易部を志望しました。しかし、配属先は想定外の人事部でした。幸か不幸か、人事部で数年を勤務するうちに、この先進むはずのサラリーマン人生の縮図を手短に経験することが出来ました。社員はまるで将棋の駒のように、上司の恣意的な評価をもとに、全国に飛ばされます。身近に見る出世競走を勝ち抜いた取締役は、40年以上も自分と家族の生活を犠牲にして、すべてを会社のために捧げた代償として勝ち得た地位であることが分かりました。人生に多感な若い私には、耐え難い現実でした。40年も会社のために尽くして上場会社の取締役というステータスを得るか、名もない中小企業の経営者であっても、自分で敷いた人生のレールを走るか、悩みに悩んで、脱サラを決意しました。入社後4年4ヵ月のことです。少しの間、充電し、半年後くらいに、サンフランシスコで小さな観光会社を経営している親友に合流することにしました。

ネオンパトロールの新会社を手伝う
 それまでの間、2才年上の兄(梅根敏志)が半年前に立ち上げたばかりの新会社をパートで手伝うよう頼まれました。兄は、義理の父であり、当時ウララネオンの役員であった井上晃氏からヒントをもらい、ネオン広告塔の修理を専業とする「日高ネオンサービス」という会社を昭和43年の2月に創立したばかりでした。当時、ネオン会社は製作に忙しく、不点が放置されたネオン塔が多くあり、ネオン会社も広告主もネオンの不点には手を焼いていました。「ネオンパトロールシステム」と銘打って、「ネオンパトロールカー」とボディペインティングした専用車を走らせ、契約したネオン塔を週に2回程度巡回して不点をチェックします。不点を発見すれば、了承を得て翌日には修理するといったシステムです。昼は営業と不点修理、夜はパトロールと、新会社にしては忙しいスタートを切りました。無責任にも、兄も私もネオンには全く素人であったため、現場でネオンの配線を見ながら、見よう見まねで不点箇所を修理しました。兄は登山をしていたせいか、すぐ高所にも慣れ、小さい頃から手先が器用であったこともあり、修理技術を簡単に習得してしまいました。兄が現場、私が営業と経理という役割分担がしばらく続き、兄はウララネオンさんに技術指導を受けに行ったりしていました。しかし、幸にも不点修理から入ったため、ネオンの正式な施工技術を習得するのに、多少の時間的余裕がありました。
 そうこうする内に、半年が過ぎ、私は渡米する時期になりましたが、それにしては少々深入りし過ぎたようです。私の離職は直ちに会社の存亡に関わる状況になっていました。その後、何回か離職のチャンスを伺いましたが、辛くとも会社を経営することの楽しさに引きずられ、渡米の、そして国際貿易の夢は儚く消え去りました。

ネオン業界に本格参入
 2年後の昭和45年には、株式会社を設立し、本格的に会社経営にのめり込みました。同時に、企業経営的にも修理の専業に限界を感じ、ネオンを主体にした屋外広告物の製作・施工事業に参入しました。ネオン技術者を募集、育成すると共に、私自身も、自らネオン技術を独学し、忙しい時には現場に立つこともしばしばありました。屋上ネオン塔の丸太足場に乗って、文字の取付やネオン管の取付・配線もしました。寒い大晦日の夜、除夜の鐘を聞きながら、元日から社名変更をするホテルの屋上サインの切替作業をしたことも憶えています。悲しいほどつらい作業でしたが、現場で社員の士気を鼓舞することが私の役目です。この頃、高校時代にも履修しなかった電気理論を徹夜で勉強し、2週間ぐらいの猛勉強で電気工事士の資格試験に合格したことを憶えています。いま、組合や協会でネオン教科書の執筆や講習会の講師をしていますが、この頃の知識が役に立っています。その後も、社員に率先して、ネオン工事資格者や屋外広告士など多くの資格を取得しました。
 どの会社の草創期もそうであるように、文字通り昼夜を分かたぬ猛烈な経営努力により、業績はほぼ順調に推移しました。創業3年後の昭和46年春ごろには、ある程度会社の将来に自信が持てるようになりました。30才での結婚は私の人生計画でもあったため、退職後、多忙で付き合いが途絶えていたビクター時代の彼女であった今の家内と電撃的に結婚しました。この頃には、全く素人で入ったネオン業界にも取引先が増え、結婚式の主賓は東京システックの現小野会長のお父さんでした。
 昭和48年のオイルショックにも耐え、設立10年後の昭和55年頃までは、前年比30%〜40%の急成長をしました。昭和55年の7月には、小金井市の現在地に自前の本社ビルを建設しました。これを機に、社名を「日高ネオンサービス株式会社」から「株式会社日高ネオン」に変更しました。創業からの10数年間の30才台は、これまでの人生でも最も多忙で、緊張した日々を過ごしたと思っています。当時、兄はJCの関東地区連の要職にあったため、経営の多くは専務である私に任されました。急成長により製作・現場要員は倍増しても、間接部門の管理職人材が常に不足気味で、営業、経理、人事、総務から現場管理、外注手配まで、文字通り寝食を忘れて、人の2倍も3倍も働いたものです。

兄からバトンタッチ
 昭和56年から平成4年の10年間は、成長率こそ10%〜20%の低成長になりましたが、企業規模は着実に増大し、平成4年のピークを迎えることとなります。昭和62年には、好業績により税務署から、当時希少であった「優良申告法人」の表敬を受けました。平成4年10月には、国立市に220坪の土地を取得し、3階建ての国立工場を建設しました。竣工式には廣邊裕二会長をはじめ数百人の業界及び地元の関係者から祝意をいただきました。これを機に、兄から代表取締役社長を譲り受けます。兄は昭和60年に、地元の仲間と小金井市民テレビというCATV会社を立ち上げ、平成4年には放送を開始しました。そのため、かなりの精力を新事業に注ぐようになります。平成11年には、当社を退職し、子会社の会長職に就くと共に、住友商事系のジェイコム東京の取締役にも就任し、現在に至っています。華々しい国立工場の竣工と裏腹に、当社の業績は、バブルの崩壊を受け、平成4年から徐々に悪化します。平成11年には、低迷する業績に歯止めをかけるため、国立工場の現業部門を「株式会社日高ネオテック」として、分社化しました。しかし、バブル崩壊後の10年は、日本の中小企業の多くがそうであったように、前年比プラスとマイナスを繰り返しながら業績は逓減し、平成15年にやっと底を打ちました。その後、多少持ち直してはいますが、業績、企業規模とも、ピーク時の60%程度で推移しています。厳しい業界の業況と将来を考えますと、今の企業規模は過大でもなく弱小でもない適度な規模ではないかと思っています。

(次号後編へ続く)


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