私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.84
学生時代からアルバイトで修業
     中部支部 シンヨーネオン電気(株)  國定 親

國定 親さん  思い起こせば、この業界に携わってもう22年になります。
 現在私は44歳なので、人生のちょうど半分をこの業界に身を置いた事になります。
 当社は、昭和44年に現会長の父が設立した会社で、今年でちょうど40周年を迎えます。
 子供の頃から、社員みな顔見知りだったので、学生の頃は工場でよくアルバイトをしていました。ペンキ塗りから始まりチャンネル文字のフィルム貼り、そのうち板金・FL配線等もしていましたが、溶接だけは駄目でした。眼が焼けて涙が止らなくなった苦い思い出があります。
 将来は設計士になろうと思い、大学は工学部建築学課に進みました。
 勉学の方はからっきしでしたが、バスケットボールには打ち込みました。今の体型からは想像もできないと思いますが、シューティングガードというポジションでなかなかの選手だったと勝手に思っています。
 大学時代も長い夏休みなんかは、よく当社でアルバイトをしました。その頃は、足場にも上りスパン張りやネオン配線等もしていました。
 その後、無事4年間で大学を卒業し鰹コ和ネオンさんにお世話になることになりました。
 東京での一人暮らし、営業部に配属され右も左も判らない状態で、高村会長をはじめ、諸先輩方に多大なご迷惑をかけたと思います。ちょうど昭和から平成になる時期で、バブル経済といわれる時期を迎えました。
 大型のネオン塔・企業のCIなどを手掛けることができ、確かに忙しかったのですが充実した時期を過ごせました。深夜まで見積書を書いていた時代も今は懐かしく思います。
 若い年代の方はもうご存知ないかと思いますが、パソコンも無い時代で電卓片手に必死に足し算・掛け算していた時期です。当然イラストレーターなどのソフトも無く、企画部の方はロゴをコピーして拡大・縮小して糊で貼って並べていました。色を付けてとお客様からリクエストがあると、1週間程時間を頂き企画部の方にエアーブラシを使って、着色してもらっていました。今となっては懐かしい話ですが…。
 良い仲間に恵まれ良い経験をさせてもらい、大変感謝しています。
 鰹コ和ネオンさんには10年以上お世話になり、33歳の時に地元名古屋に戻りました。(嫁には都落ちと言われましたが…。)
 東京では営業専門で、他の部署の仕事に関してさほど知識がなかったのですが、戻ってからは一人で何役もこなさなければならず、あらゆる知識を求められる為、苦労しました。施工管理・積算・材料知識・申請業務等、一からの勉強でした。特に近年はLED等さまざまな光源材料及照明演出方法も多様化し、覚えなければいけない事ばかりです。
 お客様のイメージを共有し、完成にあたって納得して頂くにはかなりの知識が必要とされます。企画・施工部門の人間と意見を出し合い、苦労した物件ほど愛着がありますが、みな自分の携わった製品として、我が子のように親しみが湧きます。普段街を歩いている時も、つい気になって見てしまいます。
 最近は不景気の影響でなかなか改修工事等の話が進みません。受注工事の割合でも撤去工事が多くなり、寂しい限りです。名古屋駅地区・栄地区でも空き鉄骨が多く目立ちます。
 私はお酒が好きなので夜な夜なネオン街に出かけますが、昔に比べてやはり暗くなったな〜と感じます。
 やっぱり屋外・ネオン広告は無くてはならないものだと痛感しています。
 都市景観条例等いろいろな制約があり、自由に表現が出来難くなっている昨今ですが、街のシンボルや有名な待ち合わせ場所になりうる可能性をサインは持っていると思います。
 当社の社員はみな若いので、今後もそのパワーと情熱で突き進んでいきたいと思います。
 ネオン組合の活動では、青年部中部地区の東宝ネオン渇ト目代表世話人がめでたくご卒業ということで、今年から中部地区の代表となりました。
 青年部の全国大会等に出席すると、同年代の仲間とともに有意義な時間が過ごせます。
 青年部の定年は45歳なので、すぐ卒業してしまう年齢ですが中部地区の仲間と共にかんばって行きたいと思っています。
 これまでを振り返れば、いいお客様・いい仲間に恵まれてやってこれた事に大変感謝しています。
 健康を損ねる事が多少怖い年齢ですが、困ったことに損ねそうな事をするのが大好きなので、今後生かされているという事に感謝をし、心して仕事に取り組んで行きたいと思います。



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