私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.86
人生に例えるならば 中年期です
     東北支部 (有)ナイガイ  佐藤幸雄

佐藤幸雄さん  思えば此の仕事に染まり始めたのは、45年前です。それ迄はデパートの宣伝部に所属をして、各階の装飾やら、ウインドーディスプレーのお手伝いをしていました。ある時、ふと見たテレビドラマで、お店の看板等を作り、とても繁盛して非常に喜ばれるシーンを見て。『私も看板屋になろう』とデパートを退職したのが45年前でした。オックス画房の後藤社長と一緒でした。
 日東ネオン様の扉をたたき、色んな知識を教わり、感謝で現在に至っております。
 特記すべきは、家電の展示会でした。毎週土曜、日曜は当時のトップスターを呼んで、白物と呼ばれる家電商品の売り込みを各地で催され、打ち合わせやら、会場設定までさせて頂きました、1974年頃の事、華やかそのものでした。現在の愛妻は当時電子レンジコンサルタントをしていました、各会場で顔見知りになり、現在に至っております。
 ロータリーエンジンが開発されモータリゼーションの幕開けです。展示会設営後は、進んで誘導員もしました。写真で見る世界の名車に手を触れる事も出来感激しました。
 小雪のある日、盛岡駅前でシャープのネオン塔に上り、ぬれた軍手が鉄骨にくっついて、手だけが抜けて来た年末。巷では(花の首飾り)がボリュームを上げて下を通り過ぎます。仲間も帰り、ぶら下がっていたのは?日東の社長と私だけでした。今思えば走馬灯の如しです。
 やがてキラメキのネオンの時代に入り、数限りない配光?配色をするに至ります。地上20m、投影面積30u×四面ネオン塔が無ければ、パチンコ店はオープン出来ないとさえ思われるくらいに連立しました。ネオン管の注文は静岡方面からもあり、引き取り条件で製作しました。正に高価でも納期を重視で、飛ぶ様に売れた時代でした。
 時は流れ、看板は箱文字に投光器の時代も過ぎ、カルシート文字から、インクジェットの時代に引き継がれます。その中でLEDの存在を疑う訳には行きません。個人的にLEDの先覚者だと思っている、アビックス様に東北の代理店を頂き、東北一円は元より、北海道まで導いて下さりました。札幌の共進工芸、鷲尾社長とも仲良く仕事をさせて頂きありがとうございます。
 都市の主要線では、大型のサイバービジョンが、多彩な趣向で、お客様の心を持ち帰ります。『まさしくあれも看板です』
 今私達看板屋は、安全第一をモットーに、個々のパーツを組つないでいく、工夫の存在でもあります。工作物申請、景観条例に基づく屋外広告申請は元より、細部加工が上手い、調色塗装が上手い、配線図が読めて、高所作業が得意。がしかし必要条件は車の運転が巧みであり丁寧である事です。
配色も文字もレイアウトもパソコン作業です。がそのパソコンを管理して、環境を整え、5年毎に新たにする。今の経営者は、自転車操業も上手くなければ成りません。(薄利多売)的な商いが先行しています、一瞬躓いたら、立ち上がる前に時代に踏みにじられてしまいます。
ネオンの灯りは消ゆる事は無いと自負して、美しく瞬きをしている我が子(作品)を見ながら、前向きな(あかり)を辿って、67年目の年を暮らせたら、良しにしましょう。
 拙い文章を最後までお読み頂きありがとうございました。
 健康で、雑学で、気力で。



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