私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.87
函館のネオンの歴史に想いを馳せて
     北海道支部 (株)ヒラヤマサイン  平山孝敏

平山孝敏さん  札幌のネオン業社からクレームがつきそうな気がしますが、函館の看板史を調べている最中、意外な情報が入ってきました。
 北海道で初めてネオン工事をしたのは、函館の業者だと記録されていることです。函館に3代続いて今は亡き「 金盛堂」は北海道で初めてネオン工事をしたというのです。時代は昭和初期で、現状を見れば信じられないことですが、北海道の人口の変遷をみれば、理解できそうな気がします。 
 その前にネオンの歴史についてですが、“協会のサインストーリー”によれば、「ネオンサインは、フランスの科学者ジョルジュ・クロードにより完成され、1900年代初頭パリ万国博覧会で公開されました。日本で初めて国産ネオンが東京の日比谷公園で公開点灯されたのは、パリ万国博覧会で発表されてから十数年後の1926年 (昭和元年)。現在から84年も昔のことです。」と紹介してあります。
 北海道の人口の変遷に戻りますが、北海道の開拓の歴史は道南から始まりました。明治維新の頃すでに函館は大都市であり、1920年(大正9年)の国勢調査では、函館の人口は144,749人で北海道1位(全国9位)でした。2位は小樽(全国13位)で、3位は札幌(全国15位)で102,580人でした。1940年(昭和15年)に札幌は函館を抜いてトップになるわけですが、戦前までの函館はハイカラな街であり、カフェ、バー、赤線など相当な賑わいでした。そんな街でしたから、1926年に日本に渡ってきたネオンは、瞬く間に函館に広がったものと推察されます。

函館の繁華街 (昭和10年頃) ネオン華やかりし頃の函館夜景 (昭和35年頃)

 「金盛堂」がネオン工事を請け負うきっかけの要因はわかりませんが、現在のLEDのことでおおよそ見当がつくのではないでしょうか。ネオンはセンセーショナルな事件だったのです。
 「金盛堂」がネオンを手掛ける頃、東京の業者により、ネオンはすでに普及されていたと思われます。「金盛堂」はいち早く最先端の技術に挑戦することになり、最初のうちはネオン管を東京の業者に発注していたそうです。のちに3代目がネオン管製造の技術を東京で習得し、その設備を完備し製造まで始めました。すでにネオン華やかりし頃で、ほかのネオン業者(モリヤ電飾)、ネオン管製造業者(上林ネオン)が出てきております。
 函館山、標高334mの山頂から望む夜景にもネオンの光は絶大な貢献をしました。ナポリ、香港と並び、世界三大夜景にも挙げられています。 山頂展望台から見下ろす角度や、市街地や麓の街々との距離など、絶妙の地理条件で展開される極上の夜景は、「宝石箱をひっくり返した瞬間の感動」、「星が舞い下りて来た街」と形容され、多くの観光客を魅了してきました。ネオンの減少とともに、年々光は穏やかで優しい光になり、強くて明るい光を感ずることはなくなりました。消えゆくネオンは現実のことであり、ネオン管製造職人も消えてしまいました。
 ヒラヤマサインが登場したのは1976年。まだネオンのステータスが残っている頃でした。しかし、1973年のオイルショック経済を経たあとでしたので、大型ネオン広告塔の姿はずいぶんと消えていました。
 私は最初からネオンを手掛けた訳ではありませんし、その後も電気工事士の資格を取得したわけではなかったので、直接職人として工事を施工することはできませんでした。
 しかし、ある事件からネオンを深く勉強することになり、ネオン協会にも所属することになりました。ある事件というのは、私が請け負ったサイン工事のレストランから、ネオンが原因で出火したのです。ネオン業者に下請けさせた工事でした。原因はすぐわかりました。ラインとして直管の裸管を、直接サイディングの壁に設置したところ、サイディングを止めていた釘にネオンの端子よりリークし発火したのでした。レストランは消防の放水により大惨事にはなりませんでしたが、復旧まで3週間かかりました。ネオン業者は過失を認めず、リークの原因は塩害だと主張し、板挟みになった私はその処理に相当の苦労をはらいましたし、今後、ネオンの請け負いを続けるかどうか悩みました。しかし、ネオンはサイン業者としてはやっぱりステータスだと奮い立たせ、ネオンを勉強し、ネオンの設計をするまでになりました。
 最後になりますが、私がここまで来られたのはネオンと真剣に向き合った結果だと思っています。ネオンメンテナンスのための高所作業車の導入はさらに我が社を飛躍させました。



Back

トップページへ戻る



2010 Copyright (c) All Japan Neon-Sign Association