私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.88
銀座のネオンに魅了され
     九州支部 (株)カワハラネオン広告  川原四志和

川原四志和さん  私は軍港の街として栄え、米軍人が行き交う佐世保で生まれ育ちました。学生時代はアメリカ人がはいていたGパンをまねて、学生服をストレートに改造して着るのがトレンディな時代でした。街の繁華街には隣接して外人バーが所狭しと並んでいました。当時の外人バーはネオンサインをつけているところが多かったのですが、技術的に未熟だったのか昼間に見ても何の店舗なのか分からないような店がたくさんありました。でも夜になると一転して昼間のような明るさが戻り、とてもにぎやかだったと兄達に聞いたことがあります。当時の佐世保には多くのネオン屋がいたようで、景気も良かったようです。
 私の父は基地の近くで『軍港羊羹』という名の羊羹や饅頭を作り、菓子屋を営んでおりました。私は男ばかり4人兄弟の末子として生を受けました。父は幼いころから私たち兄弟に「商売人になれ!」と口癖のように言っておりました。
 次男が子供の頃から絵を描くのが得意でしたので、看板屋への道を選び、現在も同じ市内で広告業を営んでいます。私は学生時代、兄の仕事を見ながら物を作る仕事のすばらしさに惹かれました。
 そういう学生時代に白黒テレビから流れてきたのは、力道山が活躍するプロレス中継でした。当時『三菱ダイアモンドアワー』の時間にプロレス中継が放映され、番組のイントロで銀座三愛ビル屋上のネオン広告塔が流れていました。何回もそれを見ている内に、私は東京へ行ってみたいなあと思うようになっていました。
 高校卒業を控えた頃、父がお世話になった方で菓子の製造と卸業を経営している方から、東京へ来ないかと誘って頂きました。東京へ行きたい一心で職業のことは何も考えず、卒業とともに上京しました。
 段々都会生活もなれてくると友人達と銀座へ行くことも何度かありました。
 2年ほど過ぎた頃でしたが、夜の銀座で見上げたネオンサインの点滅に魅了され、その仕組みを知りたくなりました。次男が看板業を営んでいることもあり、私はネオン看板の仕事をしようと決めました。普通の看板業より付加価値が高いとも思いました。それから早速都内Y社へ就職し広告業界へ入りました。昼は看板の仕事をしながら夜はデザイン学校で基礎を学ぶという生活が始まりました。  
 ネオンの仕事をしたいと思っていた私は次に業界で老舗のO社に就職できました。当時、福岡に九州出張所がありましたので、九州出身ということもあり福岡での生活が始まりました。商業高校出身であった私は電気の知識が全くなく初歩からの勉強でした。昼間は仕事をしながら夜は専門誌を買って筆記・実務と猛勉強して、半年で電気工事士の資格を取りました。O社の社長をはじめ、上司の方々にも大変可愛がっていただきました。おかげさまで現在もお付き合いをさせて頂いております。これからもお世話になった方々へのご恩を忘れることのないよう、何らかの形で恩返しをして行きたいと思っています。
 昭和51年26歳で結婚し、半年後に独立致しました。ささやかな夢を持っての出発でしたが、当時は第一次オイルショックの影響で早期のネオンサインの消灯が推進されていた時代でした。今思えば大変な時に独立したものだなあと思います。食うや食わずの時代があったからこそ今の自分たち夫婦があり、会社があるのだと実感しています。
 父に教えられたことの中に「有り難いという字は困難があるから有り難いと書く。苦しいから人の苦しみ・悩みを理解することが出来る」と言うのがありますが、その当時の境遇に感謝の念を持つことが出来ました。
 創業34年目を迎え店舗の顔であるサインの仕事を通じて、クライアントの皆様が繁盛・繁栄して頂けるよう努力して行きたいと思います。今一度原点(初心)に帰り、仕事に日々日常に精進したいと思いつつ筆を置きたいと思います。

社訓
・事業の根本は人にあり
・人間の根本は品性にあり
一 顧客の心になろう
一 製品に真心をこめよう
一 すべての物質・人間に感謝の生活をしよう
一 計画性を持とう



Back

トップページへ戻る



2010 Copyright (c) All Japan Neon-Sign Association