私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.89
女だてらに看板屋
     関東甲信越支部 (有)美広  中野聖子

中野聖子さん  『私のネオン屋稼業奮戦記』を私が?
 稼業はカキクケコなんて言っている場合ではありません。何をお話したらよいのでしょう。
 千葉市内で炭、練炭、薪、炭団といった昔ながらの燃料を商う小さな燃料店の次女として生まれた私は「また女の子か」と父親をがっかりさせたそうです。
 学校の校庭が海とつながり体育の時間に海苔を採ったり、蟹を追いかけたりとそれはのんきな時代でした。家庭の事情で小学校後半から中学、高校までの8年間親戚の家に預けられて育った少女時代の経験と高校時代の落研で磨いた?図太い神経をブラさげ、いろいろな方々に可愛がっていただき、お世話になり、ご面倒をお掛けしながら成人しました。
 グラフィックデザインの専門学校を出てから出版社相手の小さな広告代理店で4年間お世話になりました。その頃の印刷物の版下はまだケント紙に写植文字をペーパーセメントで貼る手作業でした。レタースケール、ガラス棒、面相筆、烏口、溝引ものさし、オイルストン、T定規…懐かしき小物たち。
 その後、昭和54年地元の看板屋さんに入社、看板のデザインを描かせていただいたのが始まりでした。
 そこでは鉄の塊を切断できる事を知り溶接の光はきれいだけれども目が痛くなることも覚え、腕木の先に糸鋸の針がついたミシンでアクリルをバタバタさせて文字を切る職人さんの見事な技、ネオンのあの柔らかい輝きは人の手で創られていたからだったのかと納得したり、書き屋さんの芸術的な筆さばきに魅せられ、丸太三本組に滑車と鎖を使いガラガラと重い看板を高い所に持ち上げるのを見上げて首が痛くなったり、何を見ても全てが初めてで珍しく面白く、毎日が楽しくて楽しくて…。
 経営困難だったのか、遅れ遅れのお給料が半年近く頂けず、無休無給状態にも関わらず辞めなかったのはものづくりのこの仕事が性に合って好きだったのでしょうか。
 やがてその会社が倒産しました。溜まっていたお給料の代わりに工場の機械を2台いただいたのをきっかけに、会社を創ろうと思い立ち自宅に電話を1本引き、気がつけば法務局へ届けを出し終えていました。若いというのは怖いもの知らずで無謀です。恥ずかしさも不安も感じず、後先何も考えずの独立です。
 会社設立昭和59年3月、29歳の春でした。とは言ってもたった一人での始まりでしたからお受けした仕事はそのまま外注先にお願いしての出発で、作業場を探しながら訪ねてきた知り合いを仕事に誘い、また仕事の合間に近所のデザイン学校に生徒として入学、机を並べて授業を受けたクラスの男子生徒に声を掛け、その時の社員がさらに後輩を呼んでくれて、スタッフが徐々に集まりました。
 スタートした頃は全くの素人集団で失敗ばかりでしたから今日があるのは懲りずにお仕事を発注してくださった多くの方々に会社ぐるみ育てていただいたようなものでお客様皆様のおかげです。しかもお金まで頂戴して。過去には私自身も丸太足場に一緒に上り着管したものの締め方が半端で私が手をつけた部分だけネオン管がずり落ちてクレーム、現場で口うるさくして「帰れ!」と社員から垂木を投げつけられたり、またある時は塔屋に登って目的の分電盤寸前にして足が震えて動けなくなり社員に救出されたり、注射針が外れて接着剤をばら撒きアクリル板を駄目にしたり、といくらでも失敗談はあります。
 女の癖に看板屋家業は無理じゃないかと言われて少しだけ唇を噛んだ頃もありましたが「大砲の撃ち方は知らないがどこに大砲を置けば良いのかは知っている」かの大山元帥の言葉に救われ、まだまだ半人前ではありますが気を持ち直して社員に助けられながら26年経った今も頑張っている最中です。
 これまでに諸先輩方からいただいた多大なご恩を後輩に申し送ることができれば上出来なのですがなかなか実践には至っておりません。
 趣味はと聞かれれば落語を聴くこと、海釣り、ゴルフ、スキューバダイビング、フラメンコダンス、三味線、小唄と何でもかじって来ましたが、人と会う事、お付き合いする事はもっと大好きです。同業者の方とのお付合いは技術的な向上があり、異業種の方とのお付合いは精神的な新しい発展につながりそうです。
 今回、原稿を書かずに恥をかく覚悟でお受けしましたが、未熟な中身で貴重な紙面を使わせていただき、ただただ恐縮しております。同時に新参の私に貴重な経験をさせていただいた先輩に深く感謝いたします。



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