私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.91
 
     関西支部 (株)大久保工作所  大久保 弘

大久保  弘さん  私は兵庫県加西市の生まれ。生後1年も経たず母が亡くなり、小学校4年の時父も亡くなり、18歳年上の兄が農業開拓員として宮崎県に移り住む時に一緒について行きました。中学を卒業して、名古屋の繊維染色機械の工場に就職、23歳まで過ごしました。7人兄弟で、16歳年上の2番目の兄が神戸で指物大工をやっており、それを手伝うために神戸にやって来たのが、道を切り開くきっかけとなりました
 その兄が50歳で亡くなった後を受けて、昭和54年、大久保工作所を設立。その2年後に神戸博ポートピア81が開催され、メインゲート、シンボルマークの製作を手がけました。昭和58年4月、株式会社に改組して半年後、それまでの神戸市中央区生田町から長田区二番町に工場を移転、本社ビルを建てるなどして意欲的に操業を続けていたところへ、平成7年、阪神・淡路大震災に遭遇、都心部での作業が困難になり、神戸市北区の現在地へ工場を構えて、なんとか仕事へと取り組む体制を整えました。
 そこで、10mもの高さがある巨大クリスマスツリーの製作なども手がけてきました。
 我々の業界も各都道府県にていろいろな景観規制が整備され、大変厳しい情勢になりつつあります。アメリカで荒廃した街が看板やネオンサインなどの設置で、街が活気づき、都市機能が回復したばかりか、明るくなって治安もよくなったという例があります。そのためには、街の景観にマッチしたデザイン、材質、構造などを考慮することは当然ですが、それだけに、屋外広告という業種の確立が必要であると私は思います。
 看板は単なる表示にとどまらず、暮らしに夢を与える感動のツールにまで高めることがこの業界に生きる者の使命だと思います。

 現在、私は日広連と関西ネ協の理事をさせていただいております。今まで、組合役員の方々には色々とお世話になりましたので、これからは出来る限り皆様のお役に立てればと思っております。
 日広連の理事の何人かの方々と、業種の確立という話をさせていただいております。
 現在の建設業の保険は高いのでは?あらゆる関連会社と話し合いの場を設けて、例えば屋内外広告業という業種を作り、団結をしていけば道が開けるのではないか?
 後継者など色々な問題を抱える方が多くいらっしゃるのでは?
 若い人達に、やる気を起こさせ誇りを持つ業種を確立し、発展させていきたと考えます。

 一技能者としての私は、神戸マイスターの認定を戴いたのを機に、「技能者に学ぶ」という取り組みに参加させていただいておりまして、主に中学生を対象に、年に8回ほど講師として行かせていただいております。
 ハイテクの話からローテク(手の作業、すなわち技能)の重要性の話まで、あらゆる職業に当てはまるのではないでしょうかという講話から始まり、実技指導も行っております。
 生徒達が一生懸命に奮闘している姿はとても可愛いらしく、孫に接しているようでとても楽しいものです。技能はハイテクが進んでも必ずローテクに戻り、また新しいハイテクが生まれると思います。私自身にも言い聞かせる思いでもありますが、技能者としての誇りを持ちましょう!!
 まだまだ未熟者の私ではございますが、よろしくお願い申し上げます。つたない文をお読みいただきありがとうございました。
少しでも思いをお伝えできましたなら、幸いです。

   〜私の好きな名言〜  
  やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
 
  山本 五十六氏の名言より  

 



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