私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.92
あの頃夢中だった
キラキラした時間を経て
     北陸支部 かなづや(株)  土橋義幸

土橋義幸さん  私、生まれは昭和25年、60歳。私が小学校3年生の時、滋賀県で教員をしていた父が退職し、父の故郷である福井県越前市(旧武生市)に家族5人で帰って来ました。
 父は京都美大卒で日本画家を志望していました。戦後間もない田舎では看板屋が一番適当な仕事だったと思います。父は看板業を始めるにあたり、看板屋の見習いに入ったり、同業者に聞いたり、勉強家だったので本で調べたりと苦労をしたようです。
 3つ年上の兄(かなづやの現社長)が大阪の看板屋へ見習いに行き、その3年後入れ替りで私も同じ看板屋に見習いに行きました。昭和45年頃の大阪は万博前で街は活気に溢れ、新大阪駅が出来、市電が走り、空はスモックで今の中国のようでした。
 その頃の袖看板といえば木枠組でガラス板でしたが、鉄枠組でプラスチック板に変わりつつある時代でもありました。私は大阪万博開催の年に越前市へ帰り、兄といっしょに看板屋を手伝うことになりました。毎日が忙しくハシゴでの取り付けはその頃は普通でしたが、家族みんなでの看板業はとても楽しかった思い出があります。
 30歳になった昭和50年、映画館とボウリング場だった跡地にパチンコ屋が出来ることになり、ネオンの仕事が突然舞い込んできたのです。無我夢中で何とか仕上げることができ、嬉しかったことが思い出されます。
 この仕事がきっかけでかなづやはネオン屋業へと猛進することになりました。
 見様見真似でネオン職人になった私は電極付けが難しく、排気も解らない。一発奮起で一貫堂様にお願いし、1カ月間缶詰で修行に励みました。ようやく基本を習い、いろんなものが確実に作れるようになりました。
 60歳になった今、LEDの時代と大きく変化していますが、一生懸命に取り組んだ時間はキラキラしていつまでも消えることがありません。そして落としても割れないスーパーネオン管が出てくることを信じ、これからも仕事に専念したいと思っています。



Back

トップページへ戻る



2011 Copyright (c) All Japan Neon-Sign Association