特別寄稿

 1年後の被災地を歩いて 
NEOS編集顧問 小野博之

 

 あの大震災から1年と少々が経過した。被災地の人たちにはまだまだ復興の道のりは遠いが、忘れっぽい大部分の日本人からはもう過去の事件として記憶から遠のきつつある。震災直後、全国から押し寄せたボランティアの人たちも少なくなったようだ。私自身テレビで見たあの映像のショックが薄らいでいきつつある。その後の住民のドキュメントなどもテレビで紹介されているが、何か他人事という気持ちが根底からぬぐえない。テレビや新聞では伝えきれないものがもっとあるのではなかろうか。そんな気持ちを抑えきれず、震災地帯を旅してみることにした。
 原発被害地域は立ち入り禁止地区もあり、その北側の松島から海岸沿いを北上することにした。鉄道が復旧していない箇所も多く、仙台でレンタカーを借り車で回ることにした。被災地を機動的に回るためにも結局この選択がベターだった。
 4月15日の日曜日、早朝新幹線に乗った。大宮から仙台までノンストップの“はやて”で1時間10分の旅。あっという間だ。昔、私が高校を卒業し社会人となって一番に旅したのは松島と平泉だった。その時は夜行列車で上野から乗車したがずいぶん遠かった印象がある。時代の隔たりを感じた。仙台から松島までも大した距離ではない。塩釜神社は地元の人たちが参詣に訪れ、のんびりムードだった松島海岸も観光客でにぎわい、津波の被害などまったくなかったような雰囲気だった。それでも海岸沿いの土産物店で訊いたら「海水で店の床が水浸しになりました」とのこと。どの店も清掃して被害など感じさせなかった。
 昼過ぎに石巻に向かった。町を流れる旧北上川の河川敷に石の森漫画博物館がある。その特徴ある建物がよくマスコミに登場したものだ。遠目には何事もなかったように見えたが、近づいてみると1階の外壁はベニヤ板でふさがれ見る影もなく、復旧のめどが立っていないことが張り出されていた。一帯には何もなく、よく見ればあちこちに土台が残され、そこに何らかの構築物があったことが示されていた。ちょっと離れた所に異様な像が立っていて何かと思ったが、近づいてみると自由の女神像だった。FRP製で胴の部分が欠落し、鉄骨の補強材が覗き見られた。この荒廃した場所にはいかにも不似合いながら、これも災害の一風景に違いない。

石巻市内の津波水深表示
女川市内から高台の病院を見る

 石巻で一泊し翌朝女川に向かった。道路沿いは土台だけが残された被災地が続く。中にぽつんぽつんと建っている家は急きょ建て直されたものだ。 
 私は以前女川の民宿に一泊したことがある。6年前のネオン協会総会が花巻温泉で開催された時のことである。総会終了後、石巻のリアス・アーク美術館と金華山を旅した。そのとき女川の民宿に一泊したのだ。その宿の奥さんが駅まで車で迎えに来てくれ、温かく迎えてくれたのが印象に残っている。家は当然流されただろうが、家族の人たちはどうしたのだろうか、気になっていた。
 女川の少し手前に万石浦という大きな入り江があって、静かな海の景色がすばらしい。そこは以前と変わりないたたずまいを見せていた。海苔とカキの養殖のためのたくさんの筏風景も、以前とまったく変わりない。海際の海産物店で売り子をしていたおばさんに津波のときの被害状況を訊いてみた。入り江は丸い壺のように入口が狭まっていて、そこに橋が架かっていたが、その橋に遮られて浦の中の波はそう高くなかったそうだ。
 女川の街に入ったら風景が一変した。あっちこっちに柵やガードレールが敷かれ、がれきを積んだダンプカーの往来が激しい。建物らしいものは何もなく、干拓工事現場のようにまっ平らなのだ。街全体がウソのように消えていた。背後の山の中腹に白い大きな建物が建っていたので行ってみると市民病院だった。そこの玄関の柱に津波の記録という張り紙がしてあった。2mを超す位置に印がしてある。この病院が建つ場所自体街のレベルから15m近く高いのに、そこまで海水が押し寄せたとはにわかに信じがたい。受付の女性に確認したが間違いなかった。これでは街全体が海の底となるわけで、この病院の2階以上まで避難しなければ助からないわけだ。敷地の駐車場の海側に立って見渡せば街は海を除く三方を山で取り囲まれ、まるですり鉢の底にあるような状態なのだ。その惨状に涙がこみ上げてきた。
 向かいの山の斜面に建っていた家も中腹までは土台しか残っていない。駐車場の案内をしていた中年の親父さんがそこに住んでいたと言う。「津波警報を聞いた時はすぐに歩けない父親を車に乗せてこの病院まで避難しました」と話してくれた。ちょうど目の前の海際にまだ取り壊されていない2階建てのビルがあった。外観は無傷のようだが窓はすべてガラスがなく、内部はがらんとしている。そこは七十七銀行の女川支店で同支店の行員12人が屋上に避難したものの全員死亡・行方不明となっている。遺族から原因究明のために解体せずに残すことを要望されていたのだ。銀行の手前には3階建てのビルがたわいなく横にころがり、津波の猛威を物語っていた。

残された七十七銀行(右奥)
陸地に運ばれた漁船

 女川を後にして気仙沼に向かった。道中一番目についたのは、被災したいくつもの学校だった。いろいろ張り紙した正面玄関や部活の優勝カップの転がった無人の教室など、かつての活動状況がしのばれ哀れを誘った。
 気仙沼に着いた頃に夕刻を迎えた。港に沿った高台に立派な温泉ホテルが建っていたので、そこで一泊することにした。案内の女性は流石にそこまで波が迫ることはなかったものの、地震ではあっちこっちに被害を受けましたと言いつつ壁のクラックを指し示した。被災地でのんびり温泉に浸るとはもったいないような気がした。翌日は車で街を一巡したが、同じ海際なのに無傷のところと家屋の損壊が著しいところがあるのが不思議だった。海際でもないのに、広大な地域が土台だけの更地となっている。海の影も見えないところに巨大な漁船が横たわっていて異様な風景を作っている。通りがかりの車から人が降りてみんな写真を撮っている。
 気仙沼の北にはもっと被害の大きかった陸前高田や釜石があるものの、二泊三日の旅ではこの辺で切り上げ東京に向かわねばならない。仙台までの高速道路は無料だった。旅の思いは重く複雑だった。以上走り書きの報告記です。


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