私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.105
下請稼業の受け継ぎ
     九州支部 三和ネオン電機( 小平 智

小平  智さん  昭和38年に私の父と、以前から親交のあったお二人の仕事仲間と三人で始めたのが今の会社です。その時、三人の和で現在の会社名称が決定したそうです。
  それから数年後、三人はそれぞれの会社を立ち上げ両名共に九州では有名な会社となり、それぞれが助け合い協力していく良い関係を保ち、今に至っています。
  大手家電メーカー・酒造メーカー・パチンコ店が隆盛を極めた頃は、他の会社でも同じ様な状況だったと思いますが、ネオンサインの受注が多く、弊社でも全盛期は、ネオン管をコンテナで1万〜2万本単位で購入し、サポート碍子、ネオントランスは別倉庫に保管、月2〜3件の大型ネオン広告塔の設計施工を繰り返しておりました。
  バブル全盛の頃、社長であった父の勧めで弊社へ入社しました。それまで家庭ではやさしい子煩悩な父の面しか知りませんでしたが、会社では一変、鬼のような存在に。入社当時は、そんな圧倒的権力を持つ上司の父と、公私ともにぶつかり合ってたびたび言い争う事もありました。
  しかし、今となってはあの当時の父の言動が深く心に残り、従業員さん達の育成に役立っております。
  メインの仕事が元請け業者様からの依頼で、下請業務が多く、営業畑の父は非常に顧客に神経を使う人でした。中でも納期には非常に厳しく、他の業者より1日でも早く終わらせる事をモットーに、「あそこの現場だったら○○人で、○○時間で終わる」と、一言。当時は、一日に数軒引き渡しをすることもあり、時間通りにいって当たり前、少しのミスが、次の現場の取りかかりを遅らせる。そんな事の繰り返しでした。現在の信用はその礎の元に作られたと思います。今では元請けさんから全てを任せられる事もしばしばです。
  そんな父が、私にもうひとつ影響を与えたのが、当時の仕事仲間との中洲通い。ほぼビールしか飲まない父は、その中でもKIRINビール党、飲食時に食べ物をあまり口にせず、最初の一口を口に含むとそれで満足し、後は飲み飲み談笑。数件の梯子酒の後、日付が変わる事も。翌日、会社事務所カウンターにはクラブから送られてきた胡蝶蘭の花が飾ってあることがしばしばでした。しかしそんな父も、自宅ではほとんどアルコールを口にせず、今思うと、飲み屋街の雰囲気とネオン街が好きだったのかと、今となっては聞く術もなし。
  ネオンの衰退と同じくして、体調を崩し、昨今ではまだまだ若い歳で他界しました。
  そんな父の背中を見て育ってきた私も今年で、早47歳。二児の父親となりましたが、幸か不幸か子供は二人とも女の子。
  日々変革していくこの業界にいち早く対応し、本年中はアベノミクス特需を少しでも受けられるよう頑張りたいと思っております。

 


Back

トップページへ戻る



2013 Copyright (c) All Japan Neon-Sign Association