私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.106
管曲げ技術を次代に
     関東甲信越北陸支部 )シマダネオン 島田真嘉

島田真嘉さん  先代社長である父が亡くなり、28歳で会社を引き継いでから、早20年が経ちました。この仕事に就いた理由は、ズバリ「洗脳」です(笑)。幼少期に「スターどっきりマル秘報告」の正面扉や、「夜のヒットスタジオ」のセットなど、父の手掛けたネオンサインをTV越しに見せられ、父は「あれはオレが作ったんだ」と言っていたものです。小学生の頭では「父は芸能人がいるTV関係の業界人」だと勘違いした事もありました(笑)。後に理解できましたが。
  大学時代になると運転免許のない父が、「車を買ってやる」と言ってくれたので喜んでいるとその理由が、銀座に自分が手掛けたネオンサインを見に行ったり、組合の懇親会のお迎え役のためだったのです。今想うと本当に喜んでいましたね。
  車を買い与えてもらい、その車で大学に通い、女の子を乗せて遊び放題遊んで、親のスネをかじりまくった馬鹿な学生時代の自分でしたが、就職活動が始まる3年生くらいに、こんなダメな自分が親にできる恩返しは何か? と考え、シマダネオンに就職しようと決めました。しかし父は、「他人の釜の飯を食ってからじゃなきゃダメだ」と言い、静岡のネオン曲げ屋さんで一年間修業しました(修業先の社長は鮎の友釣りの名人で、そちらも修業させてもらいました) 。
  修業先での単身生活では、家族や友人の大事さが身にしみました。その寂しさを埋めてくれたのが、学生時代に車に乗せて遊んでいた女性(女房)です。
  修業後無事シマダネオンに就職しましたが、プロパンガスの火力で覚えた自分には都市ガスの火力は強力で、あっという間にネオン管や電極が溶けてしまい、うまくできませんでした。それを見た父からは、他の従業員さんがいる前で、「何を修業してきたんだ」と怒鳴りつけられ、恥ずかしいやら悔しいやらだったことも、今では良い思い出です。
  東京に戻ってからは景気の良さもあり、毎日早出残業の繰り返しでした。一日中ボーダー(直管)を作り、最高5人掛かりで500本完成させたものです。次から次へと仕事が入り、半年先も一杯という状態が続きました。
  残念ながら、今では当時の百分の一以下の仕事量です。それでも現状維持ができているのは、先代からのお得意様と、この業界で知り合えた友人のおかげです。あるお得意様からは仕事が無いことを気にかけてくださって、現場監督や管理の仕事を与えて頂き、また他のお得意様からは、撤去作業の一職人として呼んで頂いたりと感謝しきれないくらいです。聞くと「お前のところがつぶれたら困るからさ」とカッコ良く言って頂き本当に感謝しております。
  また、同じ業界の友人達は、年齢も近い二代目達ですので話も合うし、飲みながらたわいもないことでバカ笑いするだけでストレス発散になっています。今では学生時代の友人よりも仲が良いくらいです。
  組合・協会活動では、関東ネ協どんぐり会(ゴルフ会)の幹事をやらせて頂いたり、当社が全ネ協ネオン管技工士の試験会場にもなっていますので、これからも友人や仲間同志を作り続けられたらいいなと考えております。
  ネオン業界は今も苦境です。これからも更なる難問が待ち受けているだろうと常々考えておりますが、ネオンが大好きで、ネオンを使ってくださっているお客様方のためにも、良いネオンを作り続けようと考えております。
  最後になりますが、この記事を書くチャンスを与えて頂きありがとうございました。改めて自分の思いを再認識することができました。

 


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