サインとデザインのムダ話

 
「NO NEON NO LIFE」
安彦哲男
1957年京都生まれ。上京児童美術研究所で油絵を学ぶ。中・高校時代はサッカーに明け暮れる。大学時代EU放浪。その後、LA遊学。VANCOUVERで貿易会社勤務。1988年ネオンスクール入学。1989年アート活動開始。寺院、美術館、ショッピングモール、空きビルスペース、様々な場所で数々の作品を発表。2011年ネオン常設ギャラリーをオープン。2018年ネオンアートミュージアム設立計画中。
安彦哲男さん

 子供のころは絵を描くのが大好きだった。小学校5年、父に連れられて加山雄三の『レッツゴー若大将』という映画をみてサッカーを始めた。
 1979年、封建的な大学サッカー部を退部。体育会から飛び出しEUを放浪した。全く違った環境で多くの人々に出会い、ロンドンではローカルなサッカーチームでプレーする機会があった。汗をかいた後、パブにある赤い暖かいネオンの光に引き寄せられ苦いビールで酔った。
 1980年、ビバリーヒルズ、サンセット通りにあった薄暗いカフェの窓に無造作に吊られたネオン。昼間ドライブしながらでも美しく光っていたカリフォルニアの青い空とパームツリーにやたらマッチして、初めてネオンという存在を強く意識させられた。
ネオンショップの存在を知り、そこへ行って時間を潰すのが遊学中の僕の一つの楽しみとなった。
 1984年、帰国。逆カルチャーショックをうけ、様々な職業を転々とした。本当に好きなことをして生きていきたいと決意し、1988年30歳の冬、再渡米。ウィスコンシン州にあるネオンスクールに入学。雪が多い小さな町にあるネオンスクール。日本人は住んでいない。グローサリーストアでは中国人と日本人の違いについて尋ねられ、東京銀行のトラベラーズチェックをだせば責任者がでてきて、いろいろ質問される。町に3軒しかないバーにいけば「ジャップ」と呼ばれる。カナダや他の州からきたクラスメートに守られ、助けられ3カ月のコースを修了した。
 インターネットがない時代に海外で生活し、ネオンの光に出会い、ネオンスクールで学んだことは凄く貴重な経験だった。
 1989年、家の応接間をアトリエに改装し小さな作品を制作を始める。京都ならではの洗礼をうけた。隣家のおばあさんが声をかけてくれた。「あんたのコンプレッサーの音きくと、がんばってるな〜って、私も元気になるわ」「ありがとうございます」と答えていたのだが....。
 会うたび、毎日のように言ってくださるようになった。母に、その話をしたら「あんた、それうるさいって言われてるんやで」って教えてくれた。
 1990年アトリエを工業団地に移した。広さ20坪、高さ7mのアトリエで本格的にネオンアート制作をはじめた。
人類は、人工的な光を発明し、その光の中で生活してきた。蝋燭に始まり、ガス灯、白熱灯、蛍光灯、LEDと進化している。
 100年以上前に発明されたネオンの光は、輝度がたかく、光の線で、文字、絵が描けるという特性から、屋外広告サインに使用され生活空間の中で使用されなかったアウトローな光である。
 その、光を使った芸術がネオンアートである。
 ネオンはそれ自体が発光する。絵具のように、一つの表現素材とすることは面白い。他の光ではできない不思議な空間も創造することができる。
 欧米では、1960年代後期にネオンの光に魅せられた多くのアーティストが、ネオンの光を使った様々なスタイルの作品を発表してる。
 ネオン管の線で、表現された作品。ネオン文字でサインのように言葉のメッセージを表現した作品。ネオン管でなく、吹硝子に、ガスを注入し発光させた作品。彫刻や絵画とネオン管を組み合わせた作品。ネオンの光を点滅させ、演出された空間作品。建築コンセプトに基づき制作され、設置されたネオンの作品。
 アメリカでは、ネオンアートを集めたミュージアムがある。メッセージ性の強いネオンサインや、長い年月、街のランドマークとして愛されたネオンも、ネオンアートに分類され、お店が無くなった後も、サインだけ取り外し、集めて、展示しているミュージアムもある。
 日本ではネオン=看板=派手といった商業的なイメージが強く、ネオンアートの存在を知っている人はほとんどいなかった。日本でネオンアートを、アートとして認知してもらえないのではないかと思った。
 多分、ロック歌手が演歌ファンの前で歌っている感覚なのかもしれない。作品展をするたびに、多くのメディアにとりあげていただいたが、ネオンアートの面白さを分かってもらおうと一般企業へ営業に行くとほとんど人が「ああパチンコ屋でちかちかしている電飾」「ゲームセンターにあるあれ?」 「場末のバーとかストリップ劇場でジーって音出して光っている看板」
 僕自身そんなネオンサインは嫌いではないのだが、そこからネオンアートとは何かを説明するのは大変だった。
 最近でも「ネールアートですか?」とかとぼけたことを言われることがある(笑)。
 京都においてネオンアートが少し認知してもらえるようになったのは、1996年京都高台寺のライトアップからであるように思う。
 当時、清水寺と高台寺だけが夜間拝観をはじめた。朽ちた建物、庭を改修するため夜間拝観して拝観料収益を増やそうと考え、ライトアップが始まったらしい。夜間拝観には多くの反対があった。僕の企画が高台寺がライトアップコンペで選ばれ、作品を創らせていただくことができた。「秀吉の夢」というお題がだされた。
 秀吉の死後、ねねが天下泰平を願い、秀吉の家臣を徳川家康につけるために動いたという歴史話にこじつけて、ネオンの光でLOVE& PEACEを表現すると表向きのコンセプトを用意し、「宇宙を覗く隙間をさがす」という自身のアート制作テーマの中の1つであるエネルギースポットでの作品展示をさせていただいた。波心庭という日本庭園の中心に秀吉とねねの魂をあらわすネオン管を設置し、その周りに螺旋状に300本近い様々な色のネオン管を埋め、調光点滅させ2人に集まるエネルギーを表現した。土塀は赤と黄のライトをゆっくりと点滅させ、邪気を表現した。
 「お寺にネオンを持ちこむとは何事だ!」と知らない人からお叱りの電話をいただいた。
 「宇宙船の着陸基地だ!」「この空間でピンクフロイドが聴きたい」という意見もあった。
 関西方面のほとんどの新聞が朝刊の1面に記事を掲載してくれた。多くのテレビ局が報道してくれた。賛否両論あった。約6万人が観てくれたらしい。その後、築地本願寺、美術館をはじめ様々な場所で作品展示をさせていただくことができた。
 21世紀になり、リーマンショックがおき、イベントの予算が消えた。
 ものつくりは「ほんの少しの予算ありき」の面白くないものに変わった。
 京都は景観条令施行、LEDライトの台頭によってネオンサインは少なくなった。
 プロジェクションマッピングがイベントの主流になりネオンアートの出番は少なくなった。
 ネオンアートの光の気持ちよさを、より多くの人に知っていただくため、2011年京都二条城の近くの古い町屋を改装しネオンアートの常設ギャラリー『NEON FOREST JIJI 』をOPENした。現在は2Fはネオンアート常設ギャラリー、1Fはネオンの光のなかで飲めるバーとして運営されている。
 2018年、ネオンスクールで初めてネオン管を曲げたときから30年がの時が流れようとしている。ネオンの作品制作、発表を通して、多くの人と出会い、いろんなことを学ばせてもらった。ネオンの需要は減少しているが、ネオンの光を愛する人は多い。
 僕は今、ネオンアートを後世に伝えるため、いままでに制作させていただいた300点近い作品を一挙に常設展示できるネオンアート・ミュージアムを京都の山の中に創ろうと動き始めている。



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