ネオン屋稼業奮戦記

 Vol.137
今年社長に就任いたしました
    九州支部 (株)カワハラネオン広告 川原 譲

川原 譲さん  2018年4月を以って(株)カワハラネオン広告の代表取締役社長に就任いたしました川原譲と申します。
 私は、長崎県佐世保市というところで生まれ育ちました。自宅の1階が父の経営する看板工場であったため、幼少のころからネオンや看板に触れ、「看板屋っておもしろそうだな」と子どもながらに感じていました。そんな私ですが社長業を承継するまでに様々な方との出会いや就職先での経験があり今日に至ります。
 私は高校を卒業したあとに県外のデザイン系の専門学校へ通い始めました。しかし、なんとなく通学し、仲間に会うというような堕落した生活を過ごしていく中で、あるとき友人と「何のために学校に行っているのか」という話題になり、改めて自分自身を振り返り、「このままではいかん」という思いにかられました。お金を出してもらっていた両親にも申し訳が立たず、夏休みを前にわずか5カ月で学校を辞め地元佐世保に帰省しました。
 帰省してまず、叔母が経営をしていた書店と、清掃会社でのアルバイト職に就き、昼夜を問わず働きました。数カ月間ではありましたが書店では接客の基本を学ぶことができました。清掃業は繁忙期が過ぎると仕事が入った時だけ出勤する形となったので、父の会社を手伝うようになり、そこから約2年間カワハラネオンの社員としてネオン業を学びました。
 当時20歳前後でしたが、ネオンがまだイキイキとしていた時代で、遊技場やホテルの改修や修理でネオンに携わる機会も多くありました。ある程度ネオンのことがわかってきた頃、「○○の店舗で修理があるとけど、ネオントランスが原因けん行ってくれる?」と言われ、まだ半人前でしたが一人で現場へ向かったことがあります。当時私の姿を見てお店の方から「バイトの人ではないよね?」と言われてしまいました。20代そこそこの茶髪の作業員だったため信用がなかったのでしょう。しかもネオントランス15kv1台を修理するのに2時間も掛かってしまいました。
 ほどなくして修行のために東京へ出ることになったのですが、弟が先に東京の会社に就職しており、そこの社長との縁で都内のある広告会社にお世話になりました。最初の2年間は工場勤務、次の2年間は現場での工事管理、そして最後は営業に携わらせていただき、約6年間を東京で過ごしました。
 最初の頃はミスや失敗が多かったので、いつクビと言われるのだろうと思い、父に相談したこともありました。毎日のように社長や部長、現場の職人さんに怒られていましたが、まだ20代の若造でしたので「怒られるうちが華」と自分を奮い立たせ仕事に取り組んでおりました。
 いろんな人との出会いがあり、関東一円の現場にも行き、大手企業の看板作りに携わることができて大変勉強になりました。今でもその会社を通じたお付き合いは続いており、九州で仕事がある際はお声掛け頂いております。
 東京での体験を通じて嬉しかったのは、現場の仕事がスムーズにこなせるようになったことですが、中でも最も嬉しかったことは退職する際に送別会を何度か開いていただいたことです。お世話になった協力会社の社長からも「川原君の送別会をしよう」とお声を掛けていただき、送別会だけでも4回以上行って頂き、本当に感謝でいっぱいでした。その中で父である川原四志和が上京してきたタイミングでの送別会では、父も参加し居酒屋の一室で「ありがとうございました」を何度言っていたかわかりません。そういった環境で仕事をさせて頂いた東京の広告会社様には大変感謝しております。
 地元に帰ると仕事のやり方が東京に居た時とは随分と違い、ほぼすべての事を自分でこなさないといけない環境がありました。打ち合わせ、見積り、製作施工、申請などなど、これを一人でやりこなすのにすごく苦労をした記憶があります。今では社内環境を整え、社員に仕事を任せることができるようになりつつあります。まだまだ改善の余地はありますが、ネオン屋稼業二代目としての「あり方」を考えながら日々努力を惜しまず邁進してまいります。どうか私や会長である父を含め、これからもカワハラネオン広告をよろしくお願い致します。

 



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