私の街の老舗看板

　熱海と云えば知らぬ人はいないくらいの名湯の街である。かつての地名は「阿多美」だったらしいが、海から熱い湯がわき出ていたことから「熱海」とよばれるようになったそうだ。なんといっても徳川家康が1604年に来湯したという記録があるくらいだから名実ともに他に追随を許さぬ名湯である。
　1604年といえばこの四年前の1600年9月、天下分け目の戦い、関ヶ原で大勝利を収めた彼は、1603年には征夷大将軍となり、江戸幕府を開いたという時代である。後世たぬきおやじとよばれた政治達者な彼が、天下をとって、熱海の温泉でニンマリしている姿を想像すると面白い。さぞや湯加減は良かったろうと想像する。それに、以後250年の間、日本は戦のない平和な時代になり、俳句や川柳、歌舞伎など庶民文化が大きく開いた時代となるのであるから、それはもう彼を高く評価してもいいのではと思う。
　そんな時代から名前が知られていた熱海であるが、その名が一大保養地として今のような発展を遂げたのは鉄道の開通後であるが、明治後半にはすでに政財界の要人が保養や会談の為に多く訪れていた。そのため今も多くの別荘が残されている。

　その有名なところとしては1919年に別荘として作られた熱海の三大別荘のひとつである起雲閣。ここは海運王といわれた農商相の内田信也別邸として作られた後、政治家で東武鉄道の創業者の根津嘉一郎別邸になり、その後1947年に旅館として生まれ変わった。当時熱海を代表する宿として志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、山本有三、船橋聖一などの文豪達から愛されている。現在は熱海市の指定有形文化財として一般公開されているが一見の価値はある。三千坪におよぶ敷地の中央には見事な庭園がありその周りに所有者が変わるたびに増築されていった名邸が大きな円を描いて建てられている。
　三大別荘のうちあとのふたつ、三菱の岩崎小彌太の別邸、陽和洞は現在非公開であるし、住友の別荘は現存しないと云われているがその詳細は判っていないらしい。今となっては起雲閣は熱海を語る重要な建築の筆頭である。

　他には20世紀を代表するドイツの世界的建築家ブルーノタウトが設計した旧日向邸の地下室や、岩波書店の創業者、岩波茂雄の別荘で吉田五十八氏設計の数寄屋の名建築とも言える「惜櫟荘」、また温暖な気候と温泉を愛でる多くの人々が熱海で晩年を過ごしたのでその旧居も数多く残されている、中山晋平記念館、坪内逍遥の旧居双柿舎、佐佐木信綱旧居凌寒荘などなど、熱海は本当に奥深い町なのである。
　そんな熱海には当然のことであるが、古き良き時代から続いている老舗がたくさんある。ただ惜しむらくはバブル以降古い旅館がどんどん姿を消し、近代的な保養型のマンションが急増しているので老舗旅館看板が姿を消しているのが現状である。
　熱海銀座とよばれる街の中心に向かい合ってたつ二軒の和菓子屋さん。格式も、商品もよく似ている和菓子屋さん。おまけにお店の名前もおんなじともなれば観光客はまごついてしまうが、これがれっきとした別のお店なのである。山寄りの本家常盤木、海寄りの常盤木羊羹総本店。なにか確執でもあるのかと思いきや昔はともかく今はそれぞれが特徴を出して仲良く営業している。

　本家常盤木は今年で100年という堂々たる老舗で主力は百年羊羹。一方、常盤木羊羹総本店もメインはもちろん羊羹であるがイケメンの若旦那の鶴吉さんが、ご自分の名前を羊羹につけて「鶴吉羊羹」として販売している。それに「赤白二龍」という熱海伝説の赤白の龍にちなんだ羊羹もあり、ともに伊豆山神社の御用達でもある。しかしこの二軒の老舗は看板の格式ももちろんであるが、それより建物そのものが看板であるような見事な造りなのである。宮大工の手によって建てられたという建物はどちらの店も隅々までご当主の配慮が行きわたった、まさに堂々たる老舗建築である。
　熱海はたくさんの元気そうなお店が沢山ある。ひと目で老舗と思われる店舗もある。デザインも優れたものが多く見られるが最近の時代の変遷は看板にも現れている。
　昔からのものがそのまま残る老舗というより、元気にどんどん近代的な看板に変わっている。一例として熱海駅前の商店街仲見世通りで大正時代からずっと土産物屋を続けてきた中村屋というお店が、八年ほど前に新しく和菓子店を開業し、こがね餅、くずきり、松樹糖という新商品を扱って、昔と同じ名前で営業している。当然店の看板も内装もすっかり生まれ変わっての登場である。だから老舗であっても古臭さはない。時代とともに変化する柔軟さ、それが、熱海が今もなお元気で発展しているしたたかな活力なのではないかと思った