サイン屋稼業奮戦記

 Vol.138
人生さまざまどれも正解
    関東甲信越北陸支部 アフィックス(株) 大島隆夫

大島隆夫さん  自宅近くにある工場の中を小さな子どもがうろちょろしている。機械音、機械油や研磨材や洗浄剤などの匂いがある中、人が忙しそうに働いており、異音がすれば近づいて耳を澄ませ、異臭があれば鼻先を近づけ、不具合の状態を判断し調整し、それでも駄目なら部品交換をする。こんな作業を父や工場の工員たちが毎日のようにやっている姿を見て育つと、自然にその場が自分の心地よい空間になってくる。
 祖父が1935年に板橋の地で創業し、今年で83歳になった小さな町工場。これが私の幼少期の原風景である。幼稚園に入る前の年に百日咳発症、それを拗らせ小児喘息を患らい、園児年長時には愛知県小牧市に転地療養し、小学入学時に板橋に戻るも、小学校生活6年間で200日程の欠席日数を記録した。小学5年生の時に当時の学校では珍しくトランペットクラブが出来て入部。母と母の姉妹に猛反対されるも、父が味方になってくれたお陰で入部出来る事になり、その後社会人になるまで下手ながら吹いていた。お蔭で、肺活量が増え体力も付き苦しい小児喘息とも決別出来た事に感謝した幼児期。
 兄が二人いる私は三男坊、稼業を継げない事は中学時代に母に宣告された。それでも父と短期間でも良いから仕事がしたいと思い、夜学の大学に通いながら6年間稼業を手伝った。
 30歳前後にマーキングフィルムと出会い、それがきっかけで屋外広告に携わるようになった。屋上広告塔などの広告看板・商業施設などの店舗装飾・物流トラックや電車などの車両マーキングと、少しずつ業種幅が広がる事に大きな喜びと可能性を見出した様に思った。当時は、屋外広告に塩ビ系カラーフィルム(スコッチカルシート等の粘着フィルム)が出始めた頃で、桜井鰍ェ販売していたファスカルと言う粘着フィルムの加工&施工の会社で、外見は営業、実は貼施工職人と言う微妙な立場で仕事をしていた。その結果、勤めていた会社の社長に白い目で見られ独立する羽目になり、アフィックスを立上げたのが1995(平成7)年8月。
 設立当初は、カラーフィルムをカッティングマシンでカット加工しそのパーツを貼付け仕上げて納める。パーツ製作だけではなく、現場作業も一貫して受注するのが正業と考え、営業・製作・施工を貫いた。
 また当時、屋外広告業者が主要取引先だったが、世の流れが景観重視となり屋外広告規制により、徐々に得意先からの受注量も減少した。時期がずれるが広告や看板類の表示もロゴ・マーク・キャッチコピー主体の表示から、画像主体の表示へと変化する事によりカッティングからインクジェット出力品へと急激な変化があり、弊社でも1998年に水性顔料タイプのインクジェット出力機を導入するも、たいした受注も出来ず仕舞であった。
 2000年に大枚なげ打ちNUR社製 Fresco1800という生産機を導入するも2002年日韓ワールドカップサッカー会場装飾に携われるまで1年半は鳴かず飛ばずで、相当苦しい経営を強いられた。その後は徐々に声が掛かるようになり2007年頃まで何とか生き延びる事が出来た。
 2007年は年明けから経済自体に歪みを感じる年だったと記憶している。その年の秋頃からアメリカでサブプライム問題が沸き起こった。同じ時期に、出力品の価格が下落し価格競争が激化した。大口の得意先に相見積を取られるようになる。薄利多売を良しとせずこれ以上は譲れないと固持する。苦渋の決断だったが、譲らない弊社は得意先に嫌われ受注量も売上も激減し、大きな赤字を抱える事になった。
 2008年5月末に、実家稼業を継いでいた長兄が癌で他界した。遡る事3年前に、癌を宣告された時に、『跡継ぎの命』が下る。奇しくも『あなたには継がせない!』と言い切った母から。『もうこの家を守れるのはお前しかいない』と次兄が居るにも拘らず、学生時代に稼業を手伝っていた経緯がある私に白羽の矢を向けてきた。色々な悔しい思いが蘇えったが、納得し受諾した。
 命が下り2社の長となる準備を始める事にした。先ずは、アフィックスから。準備内容は大きく3項目を実現すると言う、社内の体制づくりであった。
1.私が受け持っていた客先の引き継ぎ
2.営業・製作・施工の其々の核となる者の意識を上げ、責任感を持たせる
3.社内環境(管理・作業)の整備
 この3項の実現により、一般的な会社組織の基本である『報・連・相』が出来上がる。自分に課したものは、数字で判断出来る会社づくり。
 2008年には間に合わなかったが、2011年頃には概ね出来上がった。
 余談だが2008年6月に2社の社長となり、9月にリーマンショックに巻き込まれ、その後の2年間は人生最大の危機だったと記憶している。この話は長くなるので割愛する。
 アフィックスは2010年9月に新しい期が始まり、徐々に客先からの受注も増え信頼回復も出来てきたが、翌2011年3月11日の東日本大震災で・・・、仕掛品・完成品等の製作物や材料在庫等社内の備品等も併せ小さな規模ながら被災した。また、工事物件は2カ月間新規の受注が途絶えた。 3カ月間で1カ月程度の売り上げとなり、またまた窮地に追い込まれるも、6月半ば過ぎから徐々に回復。しかし結果その年はまたまた赤字。しかし震災前には復調しており苦しいながら小さな光があった。2011年9月以降は社内整備が実を結び売上・利益共にまずまずの成績を残す事が出来た。実際には各社員の地道な努力の結果だったとつくづく思う。
 2014年5月に、工場火災により客先に迷惑を掛けるも最小限に抑える事が出来たのは、機械メーカーの対応の早さ。感謝!感謝!であった。支えて下さる取引先の方々のお陰で『生きられた!』と涙が出る思いだった。
 此処で敢えて思考の話をしよう。
 人の考え方は様々で、得意分野を伸ばす人、不得意な分野にあえて飛び込み克服しようと挑戦する人、全く関わりが無い分野に可能性を求めて入って行く人等、考え方は様々である。『どれが間違いでこれが正解では無くどれも正解!』です。
 今話題のイノベーション・革新・AIやIoT等は若い世代に任せよう!と決めた。私が今やらねばならない事は何か、立場を踏まえ考える。
 将来の展望は何か、今どの方向に進むのか、つまり明るい未来像を描き其処に進めるような環境づくりが今私に課せられた使命だと考える。
 1年後、3年後、5年後、10年後と先を見つめる事で今をつくり、コツコツそれに向かって努力精進する事。10年後にそれを達成できれば、価値ある事だと私は考えている。
 一昨年還暦を迎えそろそろ世代交代の準備をしようと考えた。『まだ早い!』 と言う人もいれば、『今からでは遅いよ!』と言う人もいるが、それでも私には今が良い時期。先ずは人づくりから、10年は掛かる。
 サラリーマンは執行役員や取締役で無い限り60歳定年が多く、私の同級生も一昨年定年を迎え一旦退職、同じ会社で同じ部署に再雇用と言う友人がいる。他には、60歳の定年間際に転職する者もいた。そんな中私はと言えば、起業し23年が過ぎやっと会社らしくなって来たかなと思う反面、未熟だ!と感じる事もある。何事にも完全を求めたいが、人生にパーフェクトは無い。誰もが、何処かで壁にぶち当たり、挫折し、それを乗り越えて味わう達成感。ものづくりに於いて、何度となくこの達成感を味わってきた。それでも未だ味わえていない達成感が『人材育成!と事業承継!』此れを味わえるのは何時だろう。と、自分と向き合い問い掛ける。
 10年後には、『そろそろ!』と、肩を叩かれるかも知れない!その時が「達成」であり『達成感の味わい初め!』かも知れない。
 最後に、この場に推挙して戴きました小野専務理事に感謝を述べさせて戴き、また協会活動に対しては皆様のお役に立てるよう精進して行く所存ですのでより一層のご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。



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