サインストーリー

 
「氷壁」
井上靖 著


 時計を見ると八時三十七分、あと二分で新宿へ着く。魚津は大きい伸びをして、セーターの上に羽織っているジャンパーのポケットに手を突込むと、ピースの箱を取り出し、一本くわえ、窓の方へ眼をやった。おびただしいネオンサインが明滅し、新宿の空は赤くただれている。いつも山から帰って来て、東京の夜景を眼にした時感ずる戸惑いに似た気持が、この時もまた魚津の心をとらえた。暫く山の静けさの中に浸っていた精神が、再び都会の喧噪の中に引き戻される時の、それはいわば一種の身もだえのようなものだ。ただそれが今日は特にひどかった 。

- 中略。-

 相手が人妻であることで、魚津は多少落胆している自分を感じた。そしてその落胆の気持の中に小坂という親しい友人の立場が全く無視されていることに気付くと、おれはどうかしているなと思った。自分だけが見た穂高の星の美しさがまだその呪文から完全に自分を解いていないと思う。窓から薬品の広告のネオンが、遠くで赤と青の文字を交互に暗い中に浮き上がらせては消えているのが見えるが、魚津はその単調で空虚な繰り返しに、ずっと眼を当て続けていた。小坂乙彦と八代美那子は、第三者に聞かれてもいっこうに差しつかえのない会話を交わしていたが、やがて美那子の、「では、わたし」と、帰り支度をする気配が、魚津には感じられた。

 
 

Back

トップページへ



2020 Copyright (c) Japan Sign Association