私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.66
一所懸命(しらしんけん)
     九州支部 太陽ネオン(有) 廣田靖夫

廣田靖夫さん 昭和32年4月。見習いの職人として、初めてネオンサインに出会った日でした。
 綺麗な色を発光するガラス管、驚きでした。あれから47年と6ヶ月。ネオンに関わってきた事になります。その間素晴らしい上司や、優秀な大勢の先輩に出会い、ご指導を頂き、今日があります。
 駅前通りや、商店街、歓楽街の入り口のアーチ、アーケード入り口、路地の裏々まで、ネオンが溢れ、昼間見えた汚さを時間と共に隠し、夜は華やかに賑わいを演出してくれました。
 当時はまだ遊郭も残っており、店頭には店々の屋号を書いたチューブオンリー型の突き出しネオンが飾られ、女達の嬌声と赤いネオンの色が妖しくマッチし非常に魅惑的な界隈を作っていました。
 今時のように道具、工具にも恵まれているわけではなく、何の作業をするのにも自分の手、技術、技が頼りであった。会社にはネオン管だけを作る専門の職人さんがいて、ネオンの作り方を教えて欲しいと頼んでも、簡単には教えてくれませんでした。我々は現場での取り付けや組立をするのみでした。
 時には、仕事が終わった後、こっそりとネオン管のつなぎや、曲げを練習し、翌日それが先輩職人にわかり、大目玉をくらうはめに…。それでも年月が重なると仕事の内容も、段取りも徐々に解るようになり、出来上がるものは文字通り光り輝く美しさで、物造りの好きだった私はしらしんけん、のめりこんでいきました。
 困難な現場、工期の余裕がなく、暑い夏の日、また反対に寒風吹きすさぶ辛い現場でも完工して、あの点灯した時の感動はなんともいえない素晴らしいものです。お陰さまで何十回、いや何百回と味わわせて戴きました。
 時には自分たちの力ではどうにもならなかった不景気やオイルショックなども経験しました。省エネを国民に啓蒙するために意味のない一つのセレモニーとして、全国的にネオンを消すというお達しで、某国営放送局からTELがあり、我が社で施工したネオン塔のメインスイッチを切るところをニュースに撮らせて欲しいとのこと。同僚職人がタラップを上がりスイッチを切る手がアップで放送され、ショックでした。ネオンサインこそ省エネの花形なのにと、仲間たちと憤慨しながら見ていました。
 私も39歳になったある日、会社を引き継ぐようにとの社長命令。経営に対する知識や、自信なぞあるはずもなく、強く拒否をしたのですが軍隊上がりの社長は言い出した事は退かず、3ヶ月の特訓の後、引き受け現在に至っています。元来、身体を動かす事は嫌いでなく、まして好きな仕事をしているのですから当然ですが、よく働きました。
 朝は6時30分には事務所に座り、設計CADもパソコンもありませんでしたが、製作図、見積もり、請求書の整理、帳簿は家内と手分けをして、昼間は作業の合間に、集金や、銀行へと労働時間は1日18時間を超える事もありました。
 二人の弟達もよく手助けをし、頑張って私を盛り立ててくれました。ネオンサインの柔らかな、暖かい光は、今流行の癒し系。雨上がりに見るネオンサイン、濡れた路面に映った光、最高です。
 旅先で、自分の手で施工したネオンサインに出会う時、至福のひと時でもあります。平和と繁栄のシンボル、ネオンサイン。この様な素晴らしい仕事にあと何年関わっていけるのだろうか。
 今までに大した事故もなく、無事にこられたのは、何も解らなかった私に対し初歩から徹底的に叩き込んでくれた先輩たち、大きな困難に出会ったとき、3本の矢となって結束してくれた弟達、寡黙に闘魂を込めて働いてくれた後輩・同僚たちがあってこそです。
 平和が続く限りネオンサインの光が消える事はありません。新しい技術の開発等により、まだまだ可能性を追求し、夜空を虹色に飾る夢は持ち続けて行きたいと思っています。

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