饗宴と孤独 黒井千次 くろい せんじ 作家 ネオンは一つだけでは生きられない。 生きてはいても、自らの命を万全に開花させるのは難しい。 ネオンは一輪挿しの花ではなく、大きな花器に盛り上げられた彩りの塊か、夜の花壇に混然と咲きこぼれる光の賑いであるに違いない。 都市生活者にとって、遠く離れた土地に出かけて帰って来た時、まず迎えてくれるのはネオンの群れの輝きである。 街の灯というけれど、闇の中にただ明りがあるだけではそれは生まれない。街である以上、灯は群れていなければなるまい。 しかも単色の明りではなく、赤や黄や青など色彩鮮やかな光が求められる。夜の深みを背景にして輝く色の狂乱は、遠くから眺めれば都会の和音を奏でている。 帰って来た、との思いが強く湧き起こるのは、まず彼方から光のハーモニーが目に届いた時であり、次第に近づく明かりが強度を増して耳に響き始める時であり、やがて乗物から降り立つ身に色彩と騒音とが降りかかる時である。 一つ一つのネオンは、それぞれ個別の呼びかけを光として放つものであるだろう。しかしそれらが夜景の中に連れ立って浮かび上がると、呼びかけの個別を越えて光と色彩の饗宴となる。そこに個々の主張を束ねたネオンの生命が誕生する。個であると同時に集団であり、呼びかけであると同時に存在でもある光の賑やかさ。 時にはしかし、町はずれの闇にぽつんと灯る孤独のネオンを見かけることもある。うら寂しい眺めだが、なにか秘密のサインを送るかに目に映る。ネオンの異端者であるとしても、その下で繰り拡げられる光景には興味を唆られもする。ネオンは内側に色々なものを隠しているのかもしれない……。 平和の目じるし 池内 紀 いけうち おさむ ドイツ文学者・エッセイスト 気づく人は少ないだろうが、ネオンサインは自動車や電話や映画と同じころに町へあらわれた。二葉式の飛行機が空に舞いはじめたころでもある。二十世紀の発明品、あるいはこの世紀の初めに市民生活の中へと入ってきた。 町が都市になり、都市が大都市へと拡大していったときである。地方から続々と人々が移ってくる。見知らぬ街に住居を見つけ、暮らしを始め、それが地についたころ、気がつくと、いつものネオンがまたたいていた。 東京都板橋、三軒茶屋、雑司ヶ谷、文京区本富士町……。若いころ、ひとり者の気らくさで転々とした。どこにも近くに○○銀座といった商店街があって、入口に可愛らしいネオンがともっていた。商店組合がデザインを考えたのか、それぞれの街にふさわしい小さな飾りをおびていた。 故里には目じるしの学校や神社や杉の大木があったが、新しく住みついた街にはそれがない。代わってネオンサインが地縁的シンボルの役目を果たしてくれる。なじみのうすい土地にきて、ひそかにいだいている不安を、あざやかな夜の明かりがやさしくなだめてくれる。 ネオンが街角にまたたいているかぎり、平和な世の中と思っていい。経済恐慌、クーデター。非常時、戦争│ネオンが消える時代はいつも悪い時代である。画家の木村荘八が思い出のなかに書いていたが、戦後の新聞に「ネオンサイン外務員若干名募集」の広告をみて、ひどい時代が終わったことをしみじみうれしく思ったそうだ。 ネオンサインの記憶 青来有一 せいらい ゆういち 作家 ネオンサインでまず記憶に浮かんでくるのは、毎年、盆の墓参りの時に見る長崎夜景の美しさである。最近ではだいぶ事情が変わってきたが、私が暮らす長崎では夕刻あたりから墓参りに行く。陽射しをさえぎるものがない墓地は日中は焼けつくほどに暑く、確かに夕涼みの時間帯がしのぎやすい。東山手の頂近くにある家の墓地からは、港が一望できて、ネオンサインが明るい銀河のような帯となって輝く。ものごころがついて四十年以上、ほぼ毎年見ていて、この夜景は深く心にしみこんでいる。 十数年前、これはまだ肌寒い早春の時期だったが、流星群のニュースにうながされて近所の高台に登った時のことも忘れがたい。なんでもない住宅地だったが、垂直な擁壁に面したポケットパークにたたずんで、静かな地上の光のざわめきの上をすっと流星が流れていく光景をながめ、ひととき神秘的な思いにひたった。 大学生の頃にさかのぼれば、薄紫の夕暮れの街に点滅をしはじめたネオンサインに誘われて、友人たちと繁華街にくりだす時のなんともうきうきとした気分など、今も思い出してもたのしい。あるいは、憂鬱な気分に沈んでタクシーの窓ガラスに額を寄せて、ぼんやりと流れていくネオンサインをながめていたことや、雨の夜、傘をさして、路面の水溜りに映る光の点滅を見ていた時の寂しさなど、たぐりよせれば人生のさまざまな場面の感情や気分が、ネオンサインとむすびついて記憶の底から浮かんでくる。 まだ、提灯や行灯や蝋燭などしか明かりがなかった時代、日々の喜怒哀楽を抱えて人々はどんな夜を迎えていたのだろうか。様々な思いや感情もたちまち闇一色に塗りつぶされてしまったのではなかろうか。ネオンサインの輝きをながめながら、それがどれほどわたしたちの心や感受性を豊かにしてくれたのか、ふっと考えることもある。 クライスト・チャーチのネオンサイン 浅井愼平 あさい しんぺい 写真家 「ラスト・オーダーは何にしますか」 初老のバーテンダーに声をかけられた。 「同じもの」 「同じもの」 とぼくと友だちはそれぞれにこたえた。 ニュージーランドのクライスト・チャーチの裏通りのバー。一九七〇年代のはじめだったと思う。東京は冬、クライスト・チャーチは夏だった。午後の十時四十五分。どうやら閉店は十一時らしい。四五人いた客たちが一人、二人とドアを開け帰っていく。ぼくたちはスコッチ・ウィスキーをストレートで飲んでいた。最後の一杯を飲み終えた。腕時計を見ると十一時になろうとしていた。客はぼくたちだけになっていた。 「帰ろうか」 「帰ろう」 ぼくたちはバーを出た。裏通りを抜けるとき、ぼくはバーを振り返った。バーと書かれた鮮やかなグリーンのネオンサインが、ぱっと消えた。空には星が散りばめられていた。目の奥にネオンサインのグリーンが残った。 「十一時きっかりだ」 と友人が呟いた。 「そうだ、十一時」 そうして、ぼくたちのこころにグリーンのネオンサインは永遠に刻まれた。十一時という時間と共に。 ネオン 車谷長吉 くるまたに ちょうきつ 作家 私は学校を出たあと、二年半ほど広告代理店に勤めていた。新聞・雑誌・ TV・ラジオ・看板などの広告に携わった。ネオン・サインは扱ったことがない。そういう部署は別にあった。従ってネオンの仕組みや効果については、何も知らない。 昭和三十五年秋、中学校の修学旅行ではじめて東京へ来た。古里の播州飾磨では、ほとんどネオンなど見たことがなかった。それが銀座の街のネオンを見て、そのまばゆさに目がくらむような心地がしたのを、いまでもはっきり憶えている。それから年を経て、西ノ宮で料理場の下働きをしていた時分、花板さんに連れられて、大阪ミナミの宗右衛門町へ呑みに行ったことがあった。その時、はじめて心斎橋の上から道頓堀川の川面に映るネオンを見た。きれいや、と思うた。当時は世捨人として生きていたので、その世捨人の心情にネオンの暗さが沁みたのだろう。 けれども物事にはかならず盾の両面があり、いまではラヴ・ホテルやピンク・サロンのネオンのけばけばしさを見ると、胸が悪くなる。こういう具合にネオンを使うことは止めて欲しいな、と思う。が、金儲けとあらば、どんな悪どいことでもするのが人間の本性である。無論、私もラヴ・ホテルを利用したことがあるので、こういうことを言うと気が詰まるのであるが。 いまの私は贋世捨人(作家)として生きている。作家であるからには、どんな悪どいことでも受け容れる心の用意が必要である。必死(必ず死ぬ)の思いで受容するのである。だから私はたまに一人、東京鶯谷や湯島のラヴ・ホテル街のネオンを浴びに行くのである。 私の忘れられないネオン体験 柏原エリナ かしはら えりな 造形作家 アメリカ・シアトルにピルチャックガラススクールというのがあり、ここでは夏の間だけ、ワークショップが行なわれている。様々な著名なガラスアーティストを世界中から講師に招聘して、各クラス10数名ほどを教えてくれます。 私はここで2001年にフレッド・シーダ氏とデボラ・ドーン氏の2人のネオンアーティストが教えてくれる”ネオンロードテスト“という初歩のネオン制作のクラスに参加しました。 クラスの中は本当に色々な国の生徒がいて、年齢もバラバラでした。ここではガラス管をバーナーで曲げ、電極管を接続し、自分の形作った管を真空化し、ネオンガスか、アルゴンガスを封入し、時に水銀を入れ、ネオン管として発光させる、ここまでをなんとか自分でできるようにしてくれます。 その後、私は念願だった数種類のネオン管製作の方法を先生から聞きだし、挑戦してみた。管の途中にピンポン玉のような球体を作ったり、様々な色ガラスの管を作ってもらって試したり、ガラス管の破片を管の中に詰め込んだり、ネオン管の中の蛍光塗料パウダーを模様をつけながら掻き出したり、と毎日実験にいそしんだのでした。それは今まで知っていた夜の街のネオンサインとはまったく違った、光の表情を持つネオンで、私はその変化に驚きながら夢中になって実験しました。 残念ながら、未だ私のアトリエにはネオン用のバーナーが設置できないままですが、いつか自分のアトリエでネオンが作れたら、そしてそこで経験した様々な表情のネオンを作品にできたらと願っています。 そして最後の日にクラスのタイトルである”ネオンロードテス ト“の意味が解ったのです!軽トラックの後部に木でトラスを作り、そこに生徒が作ったネオン管を全て結線して縛りつけ、発電機で発光させ、夜になってその発光するトラックが山の中や街中を注目の的で走り回り、最後まで管が破損しないか、テストしたのでした! Jさんとニューヨークネオン 枝川公一 えだがわ こういち ノンフィクション作家 ニューヨークのアート・シーンを、70年代に活気づかせたソーホーの大通り、ウェスト・ブロードウェイ沿いに、ネオン・ショップがある。もっとも「ある」と断定できるかどうか。街並みがあまり変わらない、この都市も、そこにある店や、住んでいる人々の移動は激しいのである。 ここは、玄関ドアの上部を飾るネオンがステキで、鮮明におぼえている。赤と白のネオン管を使って、マンハッタンのスカイラインを描き出したもので、ブルックリン橋、エンパイアステイト・ビル、あるいは、9.11のテロで消えた貿易センタービルなどを配している。線描きのマンハッタンを道路に向かって光り輝かせているのである。 これを見たのは1980年代のことだが、もしいまもあれば、懐かしさとともに、悲しい気持にもなるにちがいない。9.11以前のマンハッタンへの郷愁もあるが、もうひとつ、個人的な事情が絡んでいる。 このネオン・ショップのことを教えてくれたのは、Jというネオン・アーティストである。Jさんは、原宿、赤坂、六本木の飲食店や物販店のために、そのころまでに100あまりのネオンをつくってきた。ネオン研究のためにニューヨークへ出かけた際に、ソーホーのショップを見つけたらしい。 「あそこへ行けば、ニューヨークらしいネオンがたくさん見られるよ」と教えてくれた。ニューヨークらしさの第一条件は、Jさんによれば「シルエットの面白さを徹底的に追求すること」だという。ぼくも、「師匠」のアドバイスに従い、美しいシルエットを求めて、ショップのなかはもちろん、マンハッタンをあちこち彷徨ったものである。 ニューヨークも時間の波に洗われている。Jさんのおすすめもちがうかもしれない。そのあたりを聞いてみたいけれど、「師匠」の所在が知れない。身体を壊して西日本の郷里へ帰ったと人伝てに聞いたきりになっている。もう10年ほど前になるか。 幼き日の銀座のネオン 泉 麻人 いずみ あさと コラムニスト 幼い頃の記憶のなかに、ネオン看板の景色が強く刻まれている。それは僕が昭和30年代初頭の東京生まれ、というせいもあるのかもしれないが、とりわけ印象深いのは、銀座の玄関口である数寄屋橋交差点の所に掲げられていた不二家のネオン。当時、三、四階建てだった店舗の屋上に、赤・白・青の三色旗にブロンドの幼女(シャーリー・テンプル)の顔を形どった「フランスキャラメル」の看板が鮮やかに灯っていた。 その光景は、昭和30年代の銀座を舞台にした映画や写真集の類にもよく記録されている(西銀座デパート上の高速道路の駐車帯が撮影地に多用されたらしい)けれど、眺めるたびに、二階の喫茶室でプリンアラモードなどを食べた幼い日の思い出が回想されてくる。下落合に住んでいた僕は、不二家のすぐ下の丸の内線(当時の駅名は西銀座だった)でアプローチしていたのだが、地上に出た途端に広がる銀座のネオン夜景は、正に都会の象徴だった…。 その時代の東京は全般に街路が乏しかったので、繁華街に灯るネオンの光彩はとりわけ浮き立っていた。そういえば、家の近所の商店街にも一つ、印象的なネオンがあった。ヒグチという小さな中華料理店の看板で、確かラーメンのお椀の渦巻状の模様が赤と緑で縁どられていた。寂しい街路の夜空に、そのネオン看板を見ると、ふとあったかい気分になったものだった。 ランドマークとしての灯り 猪瀬直樹 いのせ なおき 作家 僕の西麻布の仕事場から六本木ヒルズが間近に見える。昔は照明に映える東京タワーが見えたが、いまは遮られてしまっている。 でも六本木ヒルズの円形の建物を僕はきらいではない。日帰りの出張などでせわしく、夜に羽田空港でタクシーに乗る。首都高速で都心に向かい、浜崎橋を抜け谷町から渋谷方面へと高樹町の出口へと進むとき、あの建物のてっぺんにブルーのネオンが孫悟空の鉢巻きのようなかたちで緩いカーヴを描くその姿にほっとする。帰ってきたよ、とこころのなかで呟いているのだ。 目と鼻の先、防衛庁の跡地にも、六本木ヒルズに勝るとも劣らない高層ビル、東京ミッドタウンが出現する。昼間、工事中の建物の前を歩いてはしばしば仰ぎ見た。建設中のビルは威圧感がある。夜になると闇のなかにヌッと立つ黒い影は不気味ですらあった。 完成が迫ると、高層の室内の電灯がオフィスのように明るく、内装工事をやっているのだな、とわかる。でも六本木ヒルズに較べ、東京ミッドタウンはかたちも四角いし味気ないなあ、と思った。ところがある日、赤いネオンがついた。ビルの縦の線がくっきりと浮き出た。とたんにビルが生き生きとして心地よい存在感を主張しはじめていることに気づいた。いずれこのビルもまた、ネオンという衣装にまとわれデビューする。僕のこころのなかにその色彩とともにランドマークとして刻みつけられる日も近い。 神田駅前のネオンサイン 林 丈二 はやし じょうじ 路上観察家・デザイナー 僕のネオンの一番古い記憶はといえば、小学生時代、昭和三十年前後のこと。両親共にいそがしく働いていたこともあって、当時はめったに都心に出ることがなかった。それでも年に一度ぐらいは家族で日本橋の三越に行くことがあった。その帰り、神田駅のホームで電車を待つ間に見たネオンは子供心にも「きれいだなあ」と思いながら見入った覚えがある。 それはホームのすぐ目の前の建物に横位置についていた。光が点滅する時にチャラチャラ、パラパラ、と、当時は何か音がしていたような覚えがあるのだが、ただ何のサインだったのかは記憶に無い。 文字は五つか六つ、色も何色かあって、一つずつその文字が光りながら順番に出てくる。全部がそろうと、その回りをグルグル光が走り、全体が点滅する。その組合せがけっこう複雑で、一通りのパターンを理解するのが、小学生の頭では少しむずかしいほどであった。 電車を待っている間、いくら見ていてもあきない不思議な時間が懐しく思い出される。 カサブランカ 林 望 はやし のぞむ 作家・書誌学者 どういうわけか、私の脳みその古い部分に焼き付いている一つの風景がある。あれはたぶん五反田の駅のホームから見た風景だったと思われる。私がまだ小学校低学年のころだから、今から五十年も昔のことになる。 当時東急池上線沿線に住んでいたので、しばしば五反田の駅で山手線から乗り換えたのである。 私と年子の兄とは、駅のホームを長々とした貨物列車が通過していくと、その連結された貨車の数を、大きな声で数え上げた。当時はまだ鉄道の黄金時代で、貨車は三十でも四十でも連なって通過していったものだ。 たまたま夜のホームに立って貨車を数えていると、その線路の向う(五反田駅のホームは高架になっていて地上三階くらいの高さにあった)に、「カサブランカ」というネオンサインが明滅していたことが、なぜかはっきりと記憶に残っている。カサブランカ、という名題の通り、たしかそれは白い色のネオンで、アラビア風の家並やら椰子の木のような形やらが、ちょうど空中に浮いているように見えた。おそらくキャバレーかダンスホールか、いずれそういうようなものだったかと思われる。 今思えば、たぶんハンフリー・ボガートとイングリット・バーグマンのあの名画『カサブランカ』に因んだ命名だったに違いないのだが、当時はもちろんそんなことは知らなかった。 好奇心の塊であった私は、このカサブランカという意味も解らぬ文字と絵がついたり消えたりするのを飽かず眺めては、面白いなあと思った。ただそれだけのことで、なにも意味のない記憶のようだが、五十年間もはっきりと像を結んだまま記憶しているところをみると、きっと私の心のなかでは何らかの大きな意味があったのに違いない。が、それが何であったかはもう分からない。 人生の岐路に眺めた街の光 中村文則 なかむら ふみのり 作家 大学を卒業して、東京でアルバイト生活をしていた。 池袋のコンビニで働きながら、小説を書く日々だった。出版社が公募している賞に応募して、受賞できれば作家としてデビューできるのだけど、僕の小説は、どんどんと一次予選で落ちた。 段々気持ちも萎えてくるし、フリーターという身分に、社会は冷たかった。何度目かの小説が落選した時、池袋の街を、ふらふらと歩いたことがあった。僕は東京の生活に疲れきっていて、ただ、何をしていいかわからないまま、人にぶつかりながら歩いた。 あの時、途中で立ち止まって、池袋のネオンの光を、ぼんやり見たことを覚えている。ネオンは自分とは不釣合いなほどキラキラと輝き、それぞれの光は個別に主張しながらも、青や赤や無数の色の全体は、不思議な調和を見せていた。東京は大嫌いだったけど、それは、この街が悪いわけではなかった。街の光は美しいし、柔らかく、やさしい。見慣れていたはずなのに、なぜかあの時、その景色は気持ちに響いた。自分はまだ若い。気を取り直すように言い聞かせながら、いつまでもその光の群れを眺め続けた。僕が作家になれたのは、それから二年後のことだった。 今でも時々、何をやっても上手くいかなかったあの頃のことを思い出しながら、夜の池袋のネオンを眺める。無数の光は、いつも柔らかな光を放ちながら、僕を迎えてくれるような気がする。 ネオン輝く街 高橋昌男 たかはし まさお 作家 二〇〇一年九月に、私は〈新宿角筈一丁目一番地〉の副題をもつ自伝的青春小説『ネオンとこおろぎ』(新潮社)を本にしている。終戦の翌々年、十一歳の春から二十三年間そこで暮らした新宿三越裏 での私の内面の成長記録というべきものだが、私の成長に合わせて、戦後の文化現象の象徴ともいうべき新宿という街の移り変わりが丹念に描かれている。 私の精神形成に与って力のあった新宿なるトポス(場所)に赤、青、緑、ピンクのどぎついネオンサインは欠かせない。母が小商いをしていた裏通りの斜め向かいにサロン銀河というカフェーがあったけれど、上部の外壁いっぱい、青やピンクの星型が点滅する図はいっそ感動的であった。 本にも書いたのだが、ネオンが新宿の夜をいろどったのは朝鮮戦争のさなか、昭和二十六年(一九五一)年の秋頃からと思われる。それより以前のいわゆる焼け跡闇市時代にネオンはなかった。露店の照明は裸電球かアセチレン灯で、もちろん宣伝とか広告とは無縁である……。子供の目にもそんな光景が焼き付いていたので、私はことさらネオンに、それも原色のネオンにこだわるのかもしれない。あれは本当に美しかった! 私は毒々しいまでのネオンの色彩についてこう書き記している。「それは陰々たる闇から光まばゆい極彩色の世界へ抜け出た証しであり、灯火管制と停電の日々とおさらばする新しい時代との出逢いを告げるものだった」 あれから五十有余年。青や白の発光ダイオードの普及のせいだろうか、たとえば歳末の六本木ヒルズや新宿南口のサザンテラスの並木の電飾など、シックで幻想的な効果を狙っているようだ。これも時代か。 しかし私にはネオンの色に染まる裏通りを、男も女も色とりどりの紙のトンガリ帽子をかぶって、ひしめくように浮かれ歩いていたクリスマス・イブのあの猥雑な活気が、夢のように懐かしい。 精神の光をつくる 北川フラム きたがわ ふらむ アートディレクター 都市の冷たい壁パネルにネオンがうまく入ると、実に暖かな空間をつくる。だから、私は度々スティーブン・アントナコス(ギリシャ出身)やジョゼ・ド・ギマランイス(ポルトガル出身)にパブリックアートプロジェクトの参加を要請するのだ。 ネオンはその背景に補色をもつと、実に暖かな階調をもつ。それは光学的な光というよりは精神的な光である。私はそれをアントナコスがよく作る、アクリルのキャンバスの上に光る一本のネオン管の作品で知った。 思えばジェームス・タレルの仕事も色彩が光を受けて発色することに想を得て、光そのものを対象とするようになってきた。色彩はこの不合理、混沌とした世にあって、その源である光、更に物質としての光から精神の光を求めるようになってきたのではないか。ネオンの輝きはその時、極めて豊かな拡がりを私に与えているようなのだ。 |