ネオンの業界に仕方なく足を踏み入れた私だから、屋外広告のことも、電気のことも何もかもが解らないまま、33才で東京営業所(現東京支社)へ勤務いたしました。入社してからが大変でした。右も左も判らない私への社員教育などはありません。全て自分で学ばなくてはなりません。誰もが自分のことで精一杯で、人に教えている余裕などありません。この時代、この業界はそれが当たり前だそうで、十分な社員教育があった前の会社が良すぎたのです。
しかし、入社した限りは「鶏頭」にならなければ転職した価値はありません。何しろ1年間で遅れた10年分の勉強をして、同じ年代の人に追い着き追い越しそれ以上の人間にならなければ「私の将来は無い」という思いで我武者羅に営業、現場の仕事を覚えました。設計図、電気図面などさっぱり読めなかった私でも何とか読めるようになり、馬鹿にされながらも1年では無理でしたが3年ぐらいで、媒体開発からネオン塔の新設まで手掛けられるようになりました。不幸中の幸いか判りませんが、東京営業所は人員不足で何から何まで自分でやらなければならなかったため短期間で色々なことを知り、覚え、経験することが出来ました。しかし、毎日毎日違った問題にぶち当たり、「幅の広い」、「奥の深い」そのうえ「命がけ」の仕事だとつくづく思いました。マスメディア、特にテレビ、ラジオの仕事は1分1秒を争う、しかし一瞬にして消えてしまうちょっと味気無い、時間との勝負の仕事でありました。それに比べれば屋外広告の仕事は、企画し、設計し、確認し、施工するというチェックする時間がある程度あり有難いと思いましたが、安全面においては広告代理業の方が「命まで」取られる恐れがないので、今思えば楽な仕事でした。10年間電波や、新聞、雑誌の広告を扱ってきた私が、馬鹿にしてきた屋外広告の効果、価値を顧客に訴え続ける毎日が続き、人間変われば変わるものだと一貫性の無い自分に少々だらしなさを感じました。
慣れない力仕事、徹夜仕事、昼間は営業活動と昼夜を問わず若さに任せて働きましたが力仕事に備える基本ができていなかったのか、勤めて7年目の昭和58年2月に度々起こしていた「ぎっくり腰」がこじれ、つい看板を見すぎたせいでもないのに「椎間板ヘルニア」の手術で2ヵ月ほどの入院を余儀なくされました。
入院中の2ヵ月間は、病院を事務所代わりに電話による営業活動をしながら、余った時間は当社の創業からの歴史や作品、私自身が手がけてきた仕事を振り返り、作品に関する勉強や屋外広告の将来を考えるいい機会となりました。
その中で感じたことは、「屋外広告」にもその時代時代の景気や環境そして流行を敏感に反映した広告主、デザイン、形状、素材、などが生まれ、マスメディアとは違いある程度の期間その存在感を我々に訴え続けてくれるので、その変化がはっきりと印象付けられ、今まで以上に屋外広告の良さを再認識させられました。
また、その歴史の流れを振り返って見ている内にある程度時代の先取りが出来るのではと感じ、屋外広告の将来を見通してみました。
当時、私は、10年間のマスメディアにおける経験とその後7年間の屋外広告における経験とを冷静に比較検討し、あらゆる環境に左右され易い屋外広告の難しさを感じました・・・。
近い将来高層ビルが立ち並び、まず、媒体場所の変化が起き、媒体は、屋上から壁面、壁面から地上に、そして地上から地下へと移動し、30年後には、屋外の媒体がなくなるという厳しい見通しをつけたものでした。つまり、昭和88年(今で言うと平成24年)には屋外広告はなくなると予測をし、その見通しで将来の経営計画を立てなければと覚悟を新たにしました…。
手術も成功し何とか2ヵ月後に復帰することができました。私にとって当社の将来を考え、これからの「屋外広告業」はこうあるべきだということを考えることが出来た非常に有意義な入院生活でした。
昭和60年3代目社長として、義父の力も借りながら何とか「鶏頭」になることができました。
今後一層の努力を社員に誓い目標を右肩上がりに掲げ、全社員一丸となって目標に向かって邁進する大変希望に満ちた毎日が続き、日本経済も順調な時代が続き昭和64年1月昭和天皇崩御という悲しい出来事がありましたが、平成元年を迎え全ての業界が順風万帆の時代が続きました。そんな中、平成2年3月25日創業者福城七生を亡くし、全ての判断は自分自身でしなければならない時代が来ました。平成4年を境にバブル崩壊の結末が我々の業界にも襲い、売上は昭和60年代に逆戻りの状態となり、以降、今日まで日本の屋外広告費は、平成3年の最高額約3,950
億(電通調査)を超えることが出来ず、下降線をたどる状況が続いております。
この頃、日本国内における屋外広告の業界は、飽和状態にあってこれ以上売上げ増を期待するには海外での市場拡大が必要と判断し、中国をはじめ東南アジアへの市場開拓を行ってきました。そして平成7年、技術指導を通して知り合った中国との合弁会社を上海に設立、今年で13年目を迎えることができましたが、国内も海外もこれからが本当の勝負だと頑張っております。
また一方、我々の業界全体が安定し将来とも確固たる地位を築けなければどうにもなりません。そのためには、業界団体としての活発な活動が不可欠であります。そのことは、オイルショック時の義父の組合、政治家をバックにした行動を見てつくづく感じておりましたので、業界のため、組合員のため、ひいては自分のために努力しようと平成2年関西ネオン工業協同組合の理事、平成4年副理事長、そして平成16年には理事長、全日本ネオン協会副会長の任を仰せ付かりました。気が付いてみるとネオン屋稼業に「どっぷり」と浸かって行く自分であります。
私は、入社から今日まで32年間頑張ってきましたが、この業界も近い将来大きな変革が起こらざるを得ないのではと考えております。この変革をうまく乗り切るためにもそろそろ新しい考えを持つ次の世代にバトンタッチしなければと思っています。
また、平成16年の「景観法の制定」に伴う31年ぶりの「屋外広告物法の改正」は、我々業界の将来を決定づけるものに思えてなりません。今後我々の業界が生き残りを図るためには、もう一度初心に戻り、我々を取り巻く現状を正確に把握し、わが国の将来あるべき屋外広告の姿をはっきりと見極め、景観、環境にやさしい「街創り」、「国創り」を今迄で以上に心がけ、日本の屋外広告費というパイを十分認識し、同業他社或いは異業種企業とのM&Aをも視野に入れ行動しなければ我々の将来は無いと思います。次の世代を担う社員と一緒に、この業界がいつまでも健在でいられる戦略を立てそれに向かって努力していきたいと思っております。
私の予測が是非とも外れ、21世紀も屋外広告業界が磐石の体制で存在できるよう死ぬまで業界のために協力し頑張りたいと思いますので今後ともご指導の程よろしくお願いいたします。
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