私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.72
創業80年 四代目社長として
     九州支部 九州ネオン電機(株) 中田慶蔵

中田慶蔵さん 私は今年60歳になり還暦を迎えました。60歳にはなりましたが、気持ちだけはまだまだ若いつもりです。髪は多少寂しくはなりましたが、顔は艶々しているとよく言われ、いまも中洲で楽しく飲んでいます。
 私が、九州ネオン電機(株)に入社しましたのは、大学を卒業した昭和45年の春です。
 九州ネオン電機(株)は、私の祖父の中田庄次郎が大阪において、大阪ネオンサイン商会を創立し、昭和4年には大阪にて、電灯50周年記念展に作品を出品、受賞したと聞いております。昭和9年には、工場を福岡市に移転し、商号を株式会社九州ネオン管製作所に変更しました。手前味噌ではありますが、九州にネオン管を始めて持ってきたのが、私の祖父であります。
 昭和16年には、戦争激化により一時休業していましたが、昭和21年に、進駐軍関係保護工場として再開しました。その当時は、多数の人が働いておられました。私が5、6歳の時には、ネオン管の曲げ職人さんにネオン管で色々作ってもらった記憶があります。昭和30年には、株式会社九州ネオン管製作所を、九州ネオン電機株式会社に商号を変更し、中田庄次郎を会長に、父の中田修蔵が代表取締役に就任いたしました。
 祖父は職人気質で、ネオン管を曲げるのが得意で、今でも九州一円に、当社から独立したネオン屋さんがおられます。そういう中で、父の中田修蔵が営業活動を中心に仕事をして今日に至っております。創立から言えば、今年で80年になるのではないかと思います。
 私が入社しました昭和45年頃には、九州各地で大型ネオン塔が相次いで設置されました。特に印象に残るのは、大分県別府市内の三洋電機株式会社の大型ネオン塔です。
 看板パネルを工場で製作して、パネルをトラックで大分まで運んだ記憶があります。現場工事は、大分の太陽ネオンさんにお願いしました。今でも、廣田社長との酒の席では、たまにその時の苦労話で盛り上がります。
 それからもう1つ大きな事件がありました。昭和54年2月18日(日曜日)の夜に、一瞬にして会社が全焼してしまいました。自宅に妻の父親が訪ねてきており酒を飲んでいますと、会社が燃えていると電話がかかってきました。着替える為にかけ上がった2階への階段を踏み外した記憶があります。会社へ着くと、会社が全焼しており社長も社員一同もおりましたが、自分自身は茫然としてしまいました。
 消防署の現場検証も終わって事務所へ入りましたが、見る影も無いほど無残な惨状でしたが、目にしてビックリしたのは、金庫だけは黒こげでしたが残っており、中を見てみますと、小切手・手形関係は、すべて大丈夫でした。皆様も金庫だけは、多少高くても立派な物を買われた方がいいと思います。(余談で申し訳ありません)
 その時消防署の方から、火元は当社ではなく、隣家から出火したのを目撃したとの証言で安心したのを憶えています。
 経営者として、父を立派だと思ったのは、会社が全焼しても、冷静沈着に行動して、皆に多少なりとも不安を見せないで、社業に専心したのを見て、私も見習う事だと印象に残っております。
 それから父の自宅附近に仮事務所を建て、社員一同頑張りました。約1年後には、全焼した土地に本社事務所が完成しました。気持ちも一新して、新社屋で社長である父を中心に、兄(前社長)と自分で営業活動に専心しました。その頃は、東京・大阪でC I 活動があり、東京のサイン業者と提携し、建物全体のサインを手掛け、外はネオン関係を中心に、内部はアクリ、シート、装飾金物関係を施工し、地元「西鉄」さんや、「岩田屋」さんの工事を受注いたしました。
 世間では、ゴルフがシングルの社長は、会社が倒産する傾向が多いと聞いておりますが、父は九州の名門コース古賀ゴルフ倶楽部のシングルプレイヤーで、仕事の方はあまりやっていなかったように思います。父は、兄と自分達だけに仕事をさせて、自分自身は、よくゴルフや麻雀、中洲にも飲みに行っておりました。色々と文句も言っていましたが、昭和60年に父が他界して、兄が社長となり、兄を支えて仕事に頑張りました。父が亡くなって2、3年後位に、兄と中洲で飲んでいた時に、今にして思えばあの頃は、兄と私に厳しい経営学を教えていたのではないかと、しみじみと兄が話していたのを今でも思い出します。私もこの年齢になって、人間の大きさというか、人生に対して深く考えるようになりました。私はどちらかと言えば、猪突猛進のところがありまして、多少の失敗もしましたが性格はあまり変わりませんので、このライフスタイルで行こうと考えています。その後も仕事は順調に推移していましたが、不幸な事に、平成5年には社長である兄の中田正宣が肺がんで亡くなりました。2年あまりの闘病生活で大変でしたが、亡くなって初めて孤独という事を実感しました。私共兄弟は男ばかり4人で、まだ弟が2人おり、当社で働いておりますので、助け合ってはおりますが、兄が亡くなる平成5年頃から、バブルも崩壊し、ネオン工事が大幅に減少しています。
 私が社長になってから、売上げ、利益共あまり伸びませんが、何とか頑張っているのが現状です。
 5月にも、福岡のNHKから連絡があり、何かと思えば、最近全国的にも大手を中心に売上げ、利益共景気がいいのに、なぜ中洲のネオン塔の撤去が多いのかとの事でした。
 当社に取材に来られ、NHKで全国放映されました。その後、色々な関係の方から連絡がありビックリしております。我々ネオン業界も、今後は大型ネオン塔の時代は無理だと思いますので、当社も皆様と一緒でLED関係の仕事をして、売上げを伸ばして何とか営業しております。
 父も兄も他界して、会社を経営するのは大変だと考えておりますが、私のモットーは『会社を維持する・社員の信頼・私を捨てる・己を知る』そして「古い革袋をリフレッシュ」しながら、「新しい酒」を注ぎ込むという考えで、これからもネオン業界の発展の為に努力して行きますので、組合員の皆様も、明日に向かって明るくガンバッテ下さい。



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