私がネオン業に携わるきっかけになったのは、振り返ってみれば幼年期にあるのかもしれません。
家には風呂が無く、近所の皆も毎日銭湯に行って体を洗っていました。
銭湯の浴槽の壁面にはペンキで、富士山・松の木・帆掛け舟等の絵が描かれていましたし、路地の入口の角には映画の看板・ポスターがあり一週間に一度は内容が変っていて、よく短期間で看板を書けるもんやなぁ〜と感心していました。
看板を付けている家は映画の無料鑑賞券を貰っていましたね。
これが広告媒体の走りでしょうか??
この頃の映画は総天然色・三本立、大人二十円、子供十円位だったと思います。
私は、いつもタダで映画を観たり、チンドン屋さんの後を追いかけ迷子になったり、空に浮かぶ大売出し等のアドバルーンを見たり、飛行機から撒かれるビラを拾ったり、紙芝居屋さんの拍子木を鳴らして廻ってタダで水飴を貰い紙芝居を観たり、絵や文字も書いていたと思う近くのペンキ屋さんに小遣い稼ぎに行ったりしていました。
気さくなオッチャンで、ダイハツミゼットの荷台からペンキ・筆・脚立等の道具を運ぶ事が私の仕事で、当時の私には大金の五十円を貰いました。今思えば、仕事と言ってもペンキ屋さんのジャマをしに行っていた様なものですが(笑)。
当時の私は、看板の上から落書きしながら自分は絵の才能があると錯覚しつつ…とにかく楽しい時期でした。
毎日同じ事は嫌、勉強も嫌いでじっとしていられないので学業は……そこで、絵でも描く方が良いやろう!看板屋さんにでも成るか!と軽い気持ちでネオン業入りしようと思い、ペンキ屋さんに紹介してもらい看板屋さんに入社。
その看板屋さんは、まだ始めて二年目ぐらいの若い会社でした。
好きこそものの上手なれ、絵や文字を書けると期待に胸を膨らませていたけど…する事と言えば、タバコや雑貨等を買いに行く雑用…こんな事をする為に会社に入ったのでは無いと思いつつも辛抱の日々。
初めて現場作業に行ったのは、近鉄阿倍野にあったカルピスのネオン塔の裏の鉄骨塗装。
その時現場には足場ネット養生も無く下が丸見えで、鉄骨につかまりながらペンキを塗るので、帰る頃には手がガクガクになっていた事を覚えています。今では考えられない工事内容でしたね。
また三洋電機の外装、シャッターの絵・文字書もしました。
四人ぐらいであっちこっち行き、社長が日の暮れた帰り道「うどんでも食べて温まろうか」と言ってうどん屋さんに行きました。私はうどんに唐辛子を沢山入れて真赤なスープを飲みポカポカと温まり寒さを和らげ荷台へ。当時私は新米なのでトラックの荷台に乗っていました。冬は寒くて服を何枚も着たけれども、寒さには勝てませんでした。今もまだ寒さに勝てませんけど(笑)。
数年たって私にも後輩が出来、三洋電機の工場内の看板・扇風機・冷蔵庫・テレビ等多くの絵を描きましたねぇ。その後ネオン工事・鉄骨の溶接・基礎工事と何でもやり、日曜日も休まず忙しい日々で「ネコの手も借りたい!」いい時代でした。
昭和五十一年頃に、そろそろ独立して自分なりの仕事がしたいと社長に相談するも、「まだ早い、やめとけ」との一言。ショックでした。
この頃はオイルショックで仕事はヒマで、そんな時に独立するのは苦労するだけと社長は色々と心配してくれていたけれど、反発し何も考えず辞めてしまいました(笑)。あの頃は若かった…(反省)。
とりあえず、四人でスタートしたものの、確かに時期も悪く仕事も少ないし、得意先もこれから開拓。
給料・家賃・その他支払い・貯えも乏しく苦労しました。そんな折り、現サインテック株式会社さんの石川社長から「ゴルフ場の防雷シェルターの工事をやってみませんか?」と声をかけて頂きました。
仕事が少なくヒマな会社が多かった中、サインテックさんは忙しそうでしたねぇ。
ゴルフ場の防雷シェルターの工事はネオンとは関係無いですが、毎日ゴルフ場に通いクラブを持たずにスコップを持ってフェアウェイを闊歩。日が暮れれば方向が分からず出口を見つけるのが一番の苦労でした。石川社長には仕事、その他色々とアドバイスして頂き今日までもお世話になりっぱなしで、ありがとうございます!
余談ではありますが、私のゴルフの師匠?は石川社長です。ゴルフの手解きは受けていませんが、きっかけを作って頂きました。
それから得意先も少しずつ増え工事の発注も増え、医療器のネオン塔でまとめて千百台位の現場を三ヵ所掛持ちした事もありました。
私が携わった工事の一番規模の大きいネオン塔工事としては、阪神高速湾岸線の岸和田にある日立製作所のネオン塔で、関西空港の開港に合わせて製作。納期が合わず一部分でしたが…。このネオン塔は塩害でガイシ・トランス・ネオン管がすぐに悪くなり取替にいきました。メンテナンスは私共の仕事ですからね〜。その後改修工事が決まりトランスも千台に増えました。
足場架設・撤去工事は他社にチャンネル文字は三社、ネオン管製作は四社とお願いし、スパンドレール・トランスを現地に直送してもらい、毎日現場から帰ってVA・バインド線を用意し、ネオン管を縛る作業時にネオン塔は二面で36m程あるので端の方には声も届かず…。
バックボーダ点灯・チャンネル文字を付け、夜に第一回目の検証では赤の文字がハレーションを起こし見えづらいので、文字の輪郭を太くしたりと文字の作り変えをしました。
点灯式までこぎつけたのはクリスマス間近で工期は二ヵ月半でした。大きなトラブルは無く完成出来、我が社初めての大型ネオン塔となりましたが…昨今、大型のネオンも少なくなりました。スパンドレール・インクジェットシート貼り・水銀灯照明・LEDの発注が多くなり日々勉強です。
久しぶりに、工場の壁面に新幹線から見えるように大きな書き文字をする事になったのですが、字書き屋さんが廃業されていて、私が書くハメに…。
この先何が起こるか分かりませんが、まだまだ残りの人生を仕事・ゴルフ・その他色々と頑張ります!
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