今回「私のネオン屋稼業奮戦記」の投稿の機会を頂きありがとうございました。
私のこれまでを、振り返って書かせて頂きます。父は、御子柴電気部と言う社名で、ラジオ・トーキアンプの製作、修理をする傍ら、旅館等のネオン工事の仕事もしておりました。父のラジオ作り、ネオンの組み立て取り付けを手伝う事が、今日の始まりでした。
当時のネオンは、チューブオンリーでアングルの枠にステ管を付けその上にネオン管を取り付けた品物です(裏面は当然逆に見えるネオンでした)。
父が始めたラジオとネオンの仕事をしながら、将来の自分の職業を真剣に考え出した頃でした。大手弱電メーカーが、5球スーパーというラジオを売り出しました。大手には、到底太刀打ち出来ないと思った私は、ラジオの仕事は辞めて、ネオン屋に成ると決めました。それには、自社でネオンが作れなければ駄目だと思い、ネオン管を作って頂いていた甲府の関東ネオンの谷田さんに教えて頂く事に致しました。
6時発の中央線の汽車に乗り甲府に8時頃着いたと思います。夕方5時迄は、ネオン取り付けのお手伝いをして帰りの汽車の時間迄2時間位教えて頂きました。
2カ月間通い、どうにか電極が付けられるようになったので、ネオン製作工場を作り(排気台は谷田さんに作って頂きました)毎日練習をして、何とかネオンが作れるようになりました。
私も20歳になったので社名を富士ネオン製作所とし、自分の会社を始めました。時代も良くパチンコ店・ホテル・飲食店等多くの注文を頂き、大変忙しい毎日でした。自分の好きなネオンの仕事が出来、とても充実しておりました。
そんな中で、大変驚いた事がありました。税務署の方が来られて、ネオン管には40%の物品税が掛かると教えられた事です。
当時のネオン管は1尺(約30cm)で100円位だったと思いますから100円で40円も税金を払わなければいけないという事です。ネオン管はとても贅沢な品物だと思いました。(当時、カメラと同じ位)その後10%に下がり、今では物品税は掛かりません。
無知な故の出来事ですが、今でも強く印象に残っております。
ネオン管の取り付けは、ロープに滑車、全て人力で上げていましたが、ネオン看板もだんだん大きく重くなり、人力では大変になりました。昭和43年に思い切って、オーガー付きの3tクレーンを購入してネオンを中心とした看板全般を自社で製作から取り付け修理迄出来るようにしたいと思いました。
東は大月、北は長野、西は天竜村(佐久間ダムのある所)県内外飛び回りました。
今までのネオン製作で一番大変だったのは、隣市のデパートの文字で、社長さんが自らお書きになった趣のある書をネオンで作ると言う物です。
筆字のかすれ、滲みも表現するように曲げて曲げて・・・大きさが3mもある文字でも50cm間隔でバーナーで炙って作りました。
苦労の甲斐があり気に入って頂けて一安心致しました。
パチンコ店は、ネオンとイルミネーションが流行で、色々な色やキラキラ・チカチカ競って派手に仕上げました。サイン球が3000個も付いたSポールも製作致しました。今では、懐かしい古き良い時代でした。
カラオケ店の方にネオンは良いけれど、虫が来て困ると、言われましたので、『ネオンには、人も虫も皆を引寄せる力がある』と即答いたしましたら、お客さんも笑ってくれました。
返答に困っていたら、ひとつネオンが消えていたかも知れません。
私が、普段から心がけている事があります。社員にも指導していますが、お客さんの前では、首は傾げないと言う事です。お客さんに心配を掛けたり不安にさせる事を極力少なくしたいと思うからです。
私の好きな言葉に『臨機応変』という言葉がありますが、その時その時に仕事は判断が違う事です。それが、むしろ楽しく感じられます。
今現在、ネオンの仕事は少なくなってきてはいますが、必ずネオンの仕事はあると確信しております。頑張って、時代のニーズに合ったネオンを提供し続けたいと思います。
私は、富士ネオンの亀井社長にお誘いを頂き、協会に入れて頂きました。お陰で、多くの方とも知り合いに成る事が出来ました。
青年部には、野口がお世話になっております。これからも、出来る限り部会の出席等させて頂きます。ご指導ご鞭撻の程 宜しくお願い致します。
この度は、私の為に貴重な紙面を使わせて頂いたにも関わらず、つたない文章で申し訳なく存じます。最後になりましたが、これからも田舎におりましても協会の為に頑張る所存でおります。
最後まで、お読み頂きまして誠にありがとうございました。
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