私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.93
大型ネオン塔の点滅に魅了されて
     中部支部 (株)アドワーク  日下部美佐治

日下部美佐治さん  私は電気工事会社で、電気の技術を習得し電気工事士の資格を取りました。それがこの業界に入った大きなきっかけといえるかもしれません。
 当時は名古屋の繁華街は、今と違って名古屋駅前から広小路、納屋橋、栄、今池がメイン通りで、ビル屋上に大型広告塔やネオン満載の広告塔が沢山ありました。それらを見た私はそれらのネオン点滅の美しさにすっかり魅了されてしまいました。そこでネオンに関わる仕事をしてみたいと思うようになり、まずどこかの会社に入って修行しようと考えたのです。
 幸い知り合いに大型広告塔を、設計・施工している会社がありましたので、その会社で、図面・見積り・製作・現場施工を経験させてもらいました。数年の修業期間で、ひととおりの技術を習得させてもらうことができました。
 ビル屋上の媒体広告塔だと、屋上基礎、鉄骨、外装仕上げ、ネオン電気工事まで一貫作業で施工させてもらったので、完成したときはとても本当に嬉しくて、こころから生きがいを感じることができました。そこで、これを一生の仕事にしようと決心したわけです。
 独立したのは昭和54年、最初にアドワークを創業しました。独立して三年経った昭和57年頃から、消費者金融の出店ががぜん増えたのを記憶しています。中部地区の物件の店舗、看板、屋上広告塔、サインポールの仕事、またパチンコ店、ホテルの看板、ネオンの新規物件など仕事もどんどん入ってきて、毎日忙しく施工していました。四年後の昭和58年に株式会社アドワークを設立しました。独立当時は、ちょうど日本は高度成長を迎えて活気にあふれた時代でしたので、喫茶店はじめ、スペイン料理の店などたくさんの仕事がありてんてこ舞いの毎日でした。ネオンの仕事もその頃はまだネオントランス二、三台の工事が多かったのですが、それでも毎日楽しく仕事をさせてもらいました。
 当時はまだ世の中にコンビニがない時代でしたので、今の様なアルミの規格看板などはほとんどなくて、鉄骨造りのポール看板を主体に数多く施工していました。そのうちローソンの出店が増えてきて、相当数のランマ看板を施工させて頂きました。
 昭和60年には栄地区のビル屋上に媒体広告塔を基礎から作るという物件も多くあり、独立当時の夢が叶えられたような気持ちでした。でもそのうちにネオンの仕事は少しずつ減っていきました。それでも平成17年頃までは、なんとかネオンの仕事もありましたが、平成18年頃から大型物件もネオンの仕事も少なくなりました。本当に寂しい限りです。
 また、景気が回復して、みんながネオンの良さを再発見し、楽しいネオンの仕事がどんどん出てくる事を願っています。



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