特別リポート

 

東日本大震災を経て思うこと

  東北支部 (株)原町サイン 竹内雄一


 3月11日、金曜日、午後2時46分。あの未曾有の大地震が東北を、この国を襲った日時だ。
 私はその時点、幸いにも(今では幸いと判断しているから、こう表現している)、東京はビッグサイトで開催されていた「JAPAN SHOP 2011」の視察も含めて、地元の福島を離れていた。しかも、たまたま江戸川区の東京工場にいて、この地震に遭遇した。
 まず、この揺れ方の異常さを思い、とっさにまだ揺れも収まらない直後に福島・南相馬市原町の本社に電話。地震の直近はまだ固定電話も通じていた。社員が電話口に出るも、悲鳴とガラスが割れる音が響き、ツーっと切れる。そして、その後3日間は音信不通になってしまう…。
 その間の焦燥は、今をもって振り返ると自分自身でも全く思い出せないくらい、何をやっていたのかもわからない時間だったように思う。電話はもちろんのこと、鉄道、道路、全てのインフラが壊滅的な被害を受け、地元の原町がどういう状況なのか、社員のみんなは無事なのか、家族は、親戚は、友人知人は…どうなっているのか全くわからないままの状態が、ただただ過ぎていっただけだった。これほど、自分自身の無力さを思い知ったことも人生ではなかったし、これまで社の代表としてやってきた中で、これほどの判断を試された経験もなかった。
 幸いにして、その後の連絡で社員全員の無事と、社員の家族の無事は確認でき、胸を撫で下ろす。しかしその後、知人・関係者の40名ほどが亡くなったり、未だ行方がわからない状態であることを知らされることになる。さらに、津波による被害で旧本社/鉄骨加工工場に至っては、出荷を待つだけの製品のほとんどが波に呑まれ、ゴミと化してしまうことに。だが、本社工場は、津波の被害も手前100mで辛うじて止まり、地震による社屋の被害は甚大ではあるものの、壊滅的な状況ではないことで一縷の望みを繋いだようにも思えた…。

仙台新港の津波の被害 名取川河口付近

 しかし、ここに地震と津波という大天災に続き、原子力発電所(原発)事故が福島を襲うことになる。この原発事故、福島・南相馬の人間からすると、今回の大震災の最大の問題と言わざるを得ない。先に結論を言えば、これは人災だからだ。
 地震・津波による被害は、これまでこの国が経験したことのない規模で襲い、これほど人の無力さを思い知らされることはないというほどに何もかもをってしまった。人々が生活していた家屋はおろか、町そのものが消えてしまった場所もある。かけがえのない、何にも代え難い、大切な人を失って、独りになってしまった人もいる。家族の思い出だった写真や絆となる様々な品々、そんな普段ではささやかなもの全てが一瞬にして消えてしまった。
 それでも、この未曾有の大震災を受けながら、人々はひとつになり、乗り越えていこうとしている。ある時点では、世界の賞賛を浴びながらも。だがしかし福島は、この原発事故によってその人々の志だけが一筋の光だったにも関わらず、それすらもバラバラに打ち砕き、ひとつにまとまろうとしていた心をも無惨に引き離してしまった。
 震災後、間もなく勃発した原発事故は、不正確な情報や風評の流布もあり、我々が本社を構える南相馬における人口を一時1/10にまで減少させてしまうほどに。弊社においても本社工場が原発より22km地点にあることから、社員それぞれが個々に判断を余儀なくされ、離れた避難所や親戚、知人を訪ねて離散していくこととなる。現地では、あまりにも情報の精度が悪く、恐怖だけが先行していくため、パニックをギリギリで堪えた状況が何日も続いた。あろうことか、原発を監督する立場の保安委員がいの一番に、原発より70kmも先の地点に避難しているという噂まで流れた。これではパニックになるな、という方が土台無理な話だ。
 前述した通り、こうした状況の中、私は社の代表として被災、原発事故現場の真ん中にいることなく、離れた東京の中心で事の事象を俯瞰して見ることができた。このことが、どれだけ幸いしたかわからない。現地にいたら、場合によっては津波や事故に巻き込まれて死亡していたかもしれず、さらなる迷惑や不安を社員やその関係者に掻き立てていたのかもしれないからだ。何よりも、離れていたことにより、現地にいるよりはるかに冷静に物事を判断できたし、不正確ながらも情報が取得、精査できたと思っている。
 現状、結局のところ弊社では、社の存続をまずは第一条件と判断し、福島本社の社員約30名は、社員の籍を残しつつ失業保険も受け取れるよう、一時休業を選択。全社員の了解を得て、震災翌日の12日からの受理を開始した。また、政府系銀行には支援を強力に要請。リース会社には半年間の支払いストップを了承していただいた。そしてその間も、社はもとより、微力ながら南相馬、福島全体の一助になればと、災害対策本部をはじめ、原子力保安委員会、原子力広報への陳情訴えを毎日繰り返したりもした。だが、それも徒労に終わり、今、南相馬は警戒区域をはじめ、緊急時避難準備区域など、4つの区域に別れて分断されたままという状態が続いている。まさに陸の孤島といった状態だ。政府、東京電力もこれといった対応策、指針を掲げられていないままだ。もたもたとしている間にも、不自由でストレスの溜まる避難所で、亡くなっていく老人も多い。政府が言う「自主避難区域」とは、どういう意味なのか?放射能という特殊で異常なものに対して、この曖昧な指示はいったいどういう理由、根拠があって言っているのか…全く理解に苦しむ次第だ。
 こうした混乱の中、時間だけは正確に日々はあっという間に過ぎ去っていく。結局、私が地元南相馬に戻れたのは、震災約1ヵ月後。東北道を下り、二本松から県道をつたい、ようやく本社にたどり着くと、そこにはあまりにも変わり果てた光景が目の前にあった。社屋の前のアスファルトの駐車場は瓦礫と土砂の山がいくつも連なり、海岸近くにあった松の大木が根っこごといくつも横たわる姿を見て愕然と立ちすくむ。
 社屋内はというと、2階部分のガラスはほとんどが割れ落ちて、天井のエアコンがぶら下がった、なんとも情けない状況が目に突き刺さる。また特に、会社付近ですらも、なにやら異様な腐臭が立ち上っており、いやが上にも神経を磨り減らせる。そして、とにかく人がいない完全にゴーストタウンと化した町がそこにはあった。このままここにいたら、頭がおかしくなるのでは?と思わせるほどの変わり果てた町が、今の我が南相馬・原町だ。
 今、こうして筆を執っていて思うことは、東京電力ならびに国や政府にとにかく、きちんとした対応、対策を示してほしい。早急に善後策のスケジュールを示してほしいということだ。福島、南相馬はこれまで、確かに原発で潤っていた関係者もいることだろうから、あまり辛辣な物言いは避けたいが、企業をはじめ、学校や農地など、そこで働いている人々や子供たちを犠牲にしてきた代償をきちんと支払うべきだと強く言いたい。おそらくは、弊社の本社工場も原発との位置関係から推測すると、今後は移転せざるを得ないだろう。今は、我々が生まれ育ったこの町全体が何びとも近寄らない区域として指定されないことをただただ祈るばかりだ…。

釜石港 釜石市

 さらには、サインという電気と密接な関係にある仕事を生業としている一業者としても、今後の展開に真剣に取り組まなくてはならないと考えている。現状のサインの消灯、夏場に向けての節電など、早急に対策を講じなければ、業界全体が存亡に関わる事態を招きかねない。言うは易しだが、技術的に可能な範囲を見極めて、自然エネルギーとの融合を図った仕組みを緊急に模索していかなければならない。LED、ソーラーパネル、風力など、今現在で、有効かつ実践できる手段はあるはずと考えている。サインは元来、情報発信機能。サインから伝えられないはずがないじゃないかと、とにかく踏ん張って精進していく所存だ。
 最後に、今回の大震災は、ある意味では人々の生活や日常を根底から覆すほどの衝撃をもっていたと考えている。各々が、人生そのものの在り方を見つめ直す、考え直すほどの出来事だったのではと、私は思っている。被災地の、原発事故の真ん中に根城を構えながら、その瞬間はその場におらず、幸いにして独り離れた東京という場所にいたことに、何らかの意味を感ぜずにはいられない。今回もらった命を、今後の人生を、残された時間を真に大切に、よりよい方向に活用していきたいと思う。何よりも犠牲になった方々の魂を、僅かながらでも鎮められるよう、生きていかなければと切に願ってやまない。


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