私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.102
一丸となってネオンに再びの輝きを
     関東甲信越北陸支部 (有)アサダ企画 浅田一仁

浅田一仁さん  まず始めにお断りしておかなければならないのが、ネオン屋稼業奮戦記に私が登場して良いかという事です。なぜなら近年ネオン工事を殆ど行っていないからです。以前のように、街中にネオンの灯りが点るようになれば、今後漏れなく工事が伴ってくると思うのですが…。
 もう1つ、私という人間ですが、お世辞にも出来がいいとは思えず、サラリーマン社会には対応できないことを十分に理解していたので、自ら会社を興したことを報告いたします。
 前置きはこれくらいにして、業界に入ってから今日までの経緯をお話させて頂きます。
 高校3年生、同級生は受験を控え猛勉強(95%が大学進学でした)、片や私といえば地元の先輩や進学せずに就職が決まっている友人達と、寝る暇も惜しんで遊び呆けていました。さすがに2学期も終わりに近づくと少々不安になってきて(一応受験予定でした)、バイト先へそのまま就職しようかと考えていた所へ、たまたま親戚の叔母が知り合いにネオン屋という仕事の社長がおり、給料も多く、寮も完備していてその社長自体23歳にして独立したと聞き「これだ」と迷いもなく就職しました。
 社長含め5人しかいない会社でしたが、とにかく忙しく「仕事は盗んで覚えろ」と、職人の世界の見本のような所でしたので、日々怒られ、たまにおだてられ、あっという間に時が過ぎていきました。
 当時は日曜日に荷揚げ、月曜から外装板張り込み、その後ネオン工事の殆ど繰り返しで、休みといえば、「雨で現場に入れないから今日は休もう」と社長が言った時しか記憶に無いくらい働き詰めでした。
 その甲斐があってか、8年間勤めた後独立をし、明るい未来を夢見たのですが、世の中甘くなく、バブルの崩壊というとんでもない事態が漏れなく私にも付いてきて、従来より単価の安い仕事や、指値などという訳の解らないやり方で仕事をこなしていました。
 そんな日々の中、たまたま現場で知り合った代理店の社長の息子(専務だったか)にでかい仕事の話を頂き、「これはチャンスだ!」と手を出した所、やはり世の中甘くはなく、皆さんの想像通り計画倒産、役員全員自己破産と目の前が真っ暗になったのを初めて経験しました。
 29歳、世の中に神様がいないことを知ったのもこの時でした。
 しかし、もともとゼロからのスタートだったので、プラス思考の性格が幸いし、とにかく工事をさせてくれる会社を必死に営業したところ、年度末でどこも忙しく、さらに運も味方に付け、5年後に会社を設立するまでにこぎつけることが出来ました。当時の関係者の方々には本当に感謝をしており、改めてこの場をお借りしお礼申し上げます。
 月日も流れ12年たった今、何とか仕事をこなしてはいますが、「当社はネオン屋です」とは胸を張っていえる状況ではありません。でも夜の灯りで目がいくのは、今となっては数少ないネオンばかりです。繁華街にネオンの灯がない現状を以前のように戻すことも我々協会員の今後のテーマだと思いますし、年々減少している仲間をただ勧誘するのではなく、協会のメリットを今後真剣に考えていかなければならない時期の、既に終盤に来ているという現実を受け止め、日々頑張っていこうと思います。
 30年ぶりに文章を書きましたが、自分で読み直しても内容も構成も小学生並み(現役小学生に失礼?)ですが、最後までお付き合いしてくださり有難うございます。
 私も微力ながら、協会の発展に協力していきますので、皆さん力を合わせて頑張りましょう。



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