NEONミュージアム

ストーリーネオン(渋谷トライアングルビル クラリオン屋上広告塔)
アドマックス(株) 代表取締役社長 大椋正男

  クラリオン株式会社と取引を始めた1〜2年後、1985年の秋頃、先方の宣伝部長より「今、渋谷に来られるか?」の一報が入り、直ぐ向かいました。
  ハチ公前にてお会いすると、「渋谷駅界隈の屋上広告塔の年間掲出料金を概算で良いので教えて欲しい」と、約10基の屋上広告塔の掲出料金を尋ねられたので、「ですが」と、お答えしました。
  その後で、完成したトライアングルビルを宮益坂の方面より眺め「実は、ある会社の紹介でこの屋上を○○○万円で借りる事ができるのだがどう思うか?明日の社長の米国出張前に稟議をとりたくて呼んだのだ」といわれたので、私は「業界的には安い買い物と思います。」と回答しました。すると、「分かった、後日連絡するので待ってほしい」と、その日は打ち合わせが終了しました。
  当時のクラリオン社は1970年2月東証、大証一部に指定替えを果たし、同12月に社名をクラリオンと変更してちょうど15年経った頃でした。新社名はずいぶん浸透していましたが、さらなるイメージアップに力を入れていた頃でした。そのためのネオンサインの製作ということで、当社を含め二社でデザインコンペをする事になりました。二社から6〜8案のデザインが提出されました。
  まずはプランです。私はそのプランを考え始めたときから、どこかで見たある会社のデザイン原案に魅了されていました。その案を見たときから、「このデザインはどこかで使えるぞ」という思いがあり、気になっていました。ただそれが何処で見たのか、何のデザインだったか、社内担当者にも聞いたりしましたが分りません。1〜2カ月過ぎてもそのデザイン案が頭から離れず、雑誌やその他紙面を探し続けたところ、なんとそれは某会社の年賀状でした。
  年賀状は四角ですが実際の広告塔の実物はとんがり屋根です。私はそこに紙飛行機を飛ばすことを考えました(年賀状の中に紙飛行機はありませんでしたが)。私がデザインに関して、社内でいつも言っている事は「ヒントをもらったデザインにあと一工夫、二工夫する事により、まったく新しい物になることがある。だからこそ、様々なデザインから吸収したアイデアの蓄積をどう生かすかが大切なんだ」、正にその通りになりました。
  さあ、それからストーリーの構想です。
  地上にはビル群、空に紙飛行機の演出を基本に、紙飛行機がビル群の中に吸い込まれ、最後にチューブオンリーの【Clarion】の文字が点灯する。
この案を柱に他2案用意し、全案の模型を1/50で製作して役員会のプレゼンに挑みました。競合他社は、当時には珍しいコンピュータグラフィックスによるプランでした。
  役員会では、私達が柱としたメインの案に質問が集中しました。ある役員からは「紙飛行機が舞い降りるのは企業イメージが悪いので、逆に舞い上がるのは?」という提案もあったりしましたが、提案の中で一番驚いたのはクラリオンの社長の一言でした。
  「右下の社名を取ってくれないか?」
  驚いた私は少々間をあけて「何処の広告か分かりませんので…」と、応えましたが、きっとその時ポカンとした顔をしていたのではないかと思います。それくらいこの質問には驚かされました。
  その他にも暫く質疑応答がありましたが、ほぼ我々が提案した最終プランにて落ち着きました。結果は「施工をアドマックスで行ってほしい」との事になったのです。
  プレゼンの終わりに、宣伝部長から「概算で幾らぐらい?」と訊かれました。「概算約3500万〜3600万ぐらいでしょうか?」と回答したのですが、これが私の技術屋馬鹿の真骨頂、自分でやりたいが為に、よく見積もりもしないで安く答えてしまう悪い癖が出てしまいました(涙)。
  設計を終え、さあネオン原寸製作です。当時はCADなどは無く全てが手作業。社員からは原寸製作の際、腰が痛い等の苦情も出ました。なんといっても最大13段重ねのネオン管構造です。持出しボルトには帯電防止材を塗装。演出の関係上各ネオントランスが近すぎるため、点滅演出時に他の回路に電気が流れてしまう問題もあり、色々工夫を重ね改善しました。構造上、万一最奥のネオン管に不具合がでた場合には手前から全てネオン管を取り外しての修理となります。本当に大変でした。
  いよいよ着工、現場施工も各協力会社のチームワークで、本当に順調に進行しました。
  試験点灯(点滅調整)の時、当時はすべてトランシーバーのやりとりで広告塔の内部側と宮益坂交差点の手前(地上)とで点滅調整を行います。
  「ビル群のスピードもう少し速く!」「うん、それぐらい!」と調整していると、工事中のネオン塔には施工用足場、ネット養生が掛かっているにも関わらず、会社帰りの方達が「おいおい、あれ見てみなよ!」と、信号が青くなっても半分以上の人が渡らずに立ち止まって見てくれていました。その時に私は「勝った!」と心の中でつぶやいたのでした。
  おかげでNHK朝7時のニュースはじめ民放各社、朝刊、夕刊、各紙に取り上げて頂き、すごい反響でした。クラリオンの宣伝部長からは「マスコミから製作費を聞かれたら8000万程度と返答して」と、念を押される程クライアントには費用対効果が高かったのでしょう。
  当時のNHKアナウンサー松平定知さんにインタビューを受けた時に、ついつい社名を言ってしまいNGを繰り返した事も懐かしく思い出されます。
  宣伝部長から念を押された事も含め、広告主としてはこれだけマスコミに取り上げられたら元は取ったと判断して頂いたようです。
  その上、翌年にはセールスプロモーション電通賞、公共色彩賞などを受賞。数々の反響を頂きました。
  仕事としては持ち出し部分が大きかったのですが、新たなストーリーネオンの仕事の受注に発展しました。光ファイバーを利用した「宝石箱みたい!」と評価を受けた上大岡の「赤い風船」、「キリンビール大阪」、「イースタンレジャーの花火ネオン」等々大きな仕事が続くきっかけとなりました。
  10年後には六本木ロアビル屋上の男女のハッスルダンスをモチーフにしたレイノルズ煙草のストーリーネオンにも繋がりました。タバコ広告のFFシートバックリット方式や、光るバス®など、新しい技術導入のリスクはあっても「10の内1つでもあたれば良し!」と思い、現在もチャレンジしています。

 



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