「お父さん、また変な物を持って帰って、こんなん集めてどうするん」
小学5年生の娘が、いぶかしげに私を見ています。家の玄関に置いてあるのは、印刷機械の壊れた歯車です。
錆びて朽ちた鉄塊、壊れた部品、山や川で拾う流木や小石、何の役にもたたないモノ達が集まってしまいましたが、静かに佇んでいるように見えるその姿は、もはや現代アートのようです。
我が家の片隅に鎮座しているそれらは、これ以上ないシンプルなカタチでよく手になじみ、じっと握ったり、横にしたり、縦にしたりして無心に眺めていると、仕事の疲れや悩みが癒されます。
先日、ゴミ集積場へ見学に行きましたら、何万もの空き缶が四角にプレスされ、多彩な柄のキューブとなって、どこまでも積み重った巨大な塔になっており、その迫力のある寂しさにドキドキしました。
ゴミと見られるそれらは、必要か不要かの単純な価値観だけでは、もったいない気がします。
見方を変えれば、どこにでもある小石や落ち葉などの色や形は、人がまねのできない創造物である事に気づかされます。
徳島県の山奥の町では、どこにでもある葉っぱが「つまもの」(料理を引き立てるための添えもの)として、販売されて数億円のビジネスになっているそうです。
我々の作業現場で使う道具達も、粗末で簡素なスタイルですが、可能性のきっかけになるモノだと思わずにはいられません。
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