特別寄稿

 郷土の巨人「電力の鬼 松永安左衞門」 
関東甲信越北陸支部 岩波智代子


  長崎県の離島、壱岐の出身で松永安左衞門(1875―1971)という人がいる。2011年3.11以来、最も日本を騒がせている東京電力の創立者、明治8年に生まれ、激動の明治、大正、昭和の三時代を生きて波乱に満ちた生涯を送ったその人である。
 壱岐の石田町の回漕問屋に生まれた彼は、幼名を亀之助といい、明治22年慶応義塾に入学、その在籍中に福沢諭吉の養子桃介と懇意になった。のちに実業界にでてからも互いに力になりあう間柄で、終生の交友を持ったが、その他にも、生涯の友で茶友でもあった小林一三ともこの時期に知り合っている。
その後家庭の事情で慶応を中退。三井呉服店、日本銀行などを転々とした後、神戸に福松商店を設立したが株式投機に失敗して無一文となった。しかし、明治42年に再起し、西日本鉄道の前身である福博電燈軌道を興し、その後は企業を次々に吸収合併するなど、実業家としての力量を遺憾なく発揮する。
大正11年、東邦電力を創設し、五大電力会社の雄として首位を争うまでになったが、昭和14年には日本発送電(日発)が成立して、国家管理が急速に拡大強化された昭和17年、東邦電力を解散し、関係した全事業から引退してしまった。
ところが戦後、GHQの指示によって電力再編問題が起きると、昭和24年、電気事業再編成審議会会長として復活し、国家管理の「日本発送電=九配電会社体制」を解体して、現在のような全国九ブロックに、発送配電一貫経営の民間会社を設立する案を官民あげての猛反対を押し切って推進し、その強引で果断な行動力から「電力の鬼」との異名をとった。これだけでもずいぶん面白い人生なのに、彼の面白さはそれだけではない。
還暦を迎えた昭和9年頃から、彼は茶の道にのめり込んでいく。そのきっかけについていろいろな話が残されている。黒田藩の納戸役を務めていた家柄の杉山茂丸翁が、ある日「自動車一杯の茶道具」を目白の松永邸に送りつけてきて茶事開催を強く進めたという。そこで昭和10年1月27日に熱海小雨荘で杉山翁から送られた茶道具を使って、福沢桃介と山下亀三郎を相手に見よう見まねの茶会を催しているところに益田鈍翁と室田頑翁の当時随一の茶人が突然来訪し、茶会に加わった。松永は大いにあわてたものの何とか無事に茶会を終えたという話が残されている。
この話は後日、三井財閥の大番頭であり、草創期の日本経済に貢献した益田孝(1848-1938)、後年大御所と呼ばれ自他共に近代茶の湯を主導した第一人者、かつ千利休以来の大茶人と言われた益田が、松永の並々ならぬ資質や素養を看破して茶友として仲間に引き入れようとして企んだ鈍翁独特のユーモア溢れる詐略であったのでは、と言われている。
何にせよ、茶の湯に引き寄せられた松永のその後の精進ぶりはめざましく、僅か三年ほどで『茶道三年』を著す程の境地に達するほどであった。  論語の「六十にして耳う」に因む号「」を名乗り、埼玉県志木の柳瀬に山荘を営んで、茶の湯三昧の生活を送り始める。
それからの彼は、古美術蒐集にも一段と力を注いで、昭和34年(1959)には、小田原市に樹齢400年といわれる欅の元にを建て晩年の25年を、ここで茶室から見える相模湾を愛でながら夫人と共に過ごし始めた。
小田原に居を移した彼は多くの茶人、政治家、学者、建築家、画家などを招いて茶会を催す傍ら、敷地内に松永記念館を開設し、所蔵の茶道具、古美術品を広く一般に公開している。
彼の人柄は自由奔放、一本気で負けず嫌い。質素で贅沢せず、一代で築いた財産は子孫に残さず、そのコレクションを福岡市立美術館や小田原市に寄贈している。
180センチメートルと背が高く、晩年の風貌は仙人のようであった。昭和47年6月16日、松永安左衛門は享年97才で波瀾の人生を終えた。  彼の強い遺志によって、叙勲を断り、葬儀もせず、
法名もなく、世俗を超越した「鬼」に相応しい現世との別れであったが、いまもなお小田原市西北に
ある老欅荘を通して彼の人生を見ることができる。
蛇足であるが、松永が生涯茶の師と仰いだ鈍翁は小田原に掃雲台を造営するなどして野崎幻庵、耳庵とともに小田原の三茶人として活躍したが、昭和13(1938)年、満90才で逝去。その子孫は初代小田原市長などを勤めている。このたび松永の足跡を訪ねて老欅荘を尋ねたが、隣にあったはずの鈍翁の茶室、掃雲台の土地はすでに分譲されて鈍翁を偲ぶよすがもなく、しばし諸行無常の思いにひたされた。ところが小田原の市内に鈍翁ゆかりの展示館、茶室を見いだした時は少しほっとした。

写真@:小田原の自邸「老欅荘」正門脇の松永耳庵93才(昭和42年11月撮影) 写真A:老欅荘の名前の元になったという樹齢400年以上の欅の木と重さ10トン以上と言われる黒部の大石。
   
写真B:昭和21年から晩年まで夫人と起居をともにした老欅荘。普請は地元の大工棟梁古谷善三と孝太郎父子によるもの。 写真C:茶室から見た庭園、眼下に小田原市、その彼方に相模湾を一望出来る。



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