NEONミュージアム

ホテルニューグランドのネオン
関東ネオン業協同組合 広報委員会副委員長 小野利器

■ 点灯式
  「横浜・山下公園前のホテルニューグランドのネオン看板が40年ぶりに復活」というニュースを本誌編集長の岩波さんから聞いたとき嬉しさが込み上げた。私の会社ではネオンの仕事は今はほとんど無く、私自身工事の経験すら無いのに、ネオンと共に歩んできた会社の歴史はしっかりと心に刻み込まれているようだ。山下公園で点灯式が行われると聞いたのは当日の夕方のことであったが、私は逸る気持ちを抑えながら急遽東京から横浜へと向かった。
  点灯開始は10月3日の午後6時30分。その数分前ぎりぎりに山下公園へ到着。5階建てのクラシックな建物屋上のHOTEL NEW GRANDの文字がちょうど正面に見える辺りに次第に人が集まってくる。日はとっぷりと暮れ、暗がりの中で今か今かと待ち構えていると、背後に係留中の氷川丸ほか二隻の観光船から一斉に汽笛が轟き、それを合図にネオンがパッと点灯、周囲から静かな拍手と歓声が上がった。なかなか粋な演出である。
  看板はチャンネル文字の内側に白色ネオン管を輪郭部に配したシンプルなもの。公園前は規制が厳しい地区につき、明るく目立つ看板が周囲に少ないためか存在感は抜群。ネオン独特のやさしい光でありながら、昨今流行のLEDに劣らない明るさであることに一人満足し、私は帰路についた。


■ 五輪から五輪へ

  さて、実はこの話には後日談がある。ネオン業界にとっては折角の明るいニュースであるため、復活に至る経緯をもう少し掘り下げてみたいという思いから、同ホテルへ取材を申込んだところ、広報室支配人の和田聖心さんから快諾をいただいた。早速、岩波編集長と二人で取材に伺ったのだが、その前に同ホテルの歴史について少し触れたいと思う。
  ホテルニューグランドは1927年(昭和2年)に創業。設計は渡辺仁、施工は清水組(現在の清水建設)である。渡辺仁といえば銀座和光や東京国立博物館などを設計した、近代日本を代表する建築家である。江戸時代後期のペリー来航を期に、横浜港は世界への玄関口として大きく発展したが、やがて関東大震災が街を襲い一帯が瓦礫と化す。その復興期に誕生したのが同ホテルであり、以来海外からはチャーリー・チャップリンやベーブルース、国内では皇族や石原裕次郎など数多くの著名人が訪れている。戦争直後にはマッカーサー元帥が長期滞在したことも有名な話として語り継がれている。
  現在日本で随一とされているシティー型のクラシックホテル、その屋上にネオンの明かりが灯ったのは1964年の東京五輪の時である。その約10年後にオイルショックの電力規制の影響で看板からネオンが消え、2020年の東京五輪を見据えた今回の大規模改修工事を期に40年ぶりにネオン復活となった。

■ 取材より
  広報室の和田さんからは資料や写真を沢山提供いただき、ホテル館内も案内していただいた。それだけでも十分ではあったが、何と初代ネオン看板のことを知る人物を紹介していただけることになった。その方は同ホテルに46年間勤務し、館内の電気保守を長年担当されてきた佐藤正夫さんだ。当時ネオンの管理をしていた佐藤さんの業務日誌には、オイルショックで点灯時間を短縮したことや、ネオンを撤去したことまで詳細に記されているそうだ。
  看板の再点灯に際しLEDの選択肢や役所との協議について質問したとろ、最初からネオンありきで、役所の理解もすんなり得られたとのこと。計画段階でLEDとの比較検討は行われたものの、クラシックホテルにはネオンのようなやさしい明かりが最も相応しいということで採用された。また公園に面した場所は規制により屋上看板を設置できないことになっているが、横浜市は特別にこれを許可。関東大震災からの復興のためにホテル建設の中心的役割を担ったのが当時の横浜市長だったことから、市の思い入れの深さも影響していたのではないかと想像してしまう。
  今回の取材中、「ホテルニューグランドはとっても家族的な経営なんですよ」と和田さんは仰っていた。当時18歳で入社した佐藤さんが時代を超えて再びネオンに携わる姿を見て、古き良きものを大切に思い、それを伝承させていこうとするホテルの思いも強く感じられた。
  今度みなさんがホテルニューグランドを訪れ、ネオン看板を見る機会があれば、是非その背景に様々な思いやドラマがあることも想像していただけたらと思う。



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