サイン屋稼業奮戦記

 Vol.115
社名に思いを込めて
     関東甲信越北陸支部 ユーネクサス 大澤恵司

大澤恵司さん   昭和61年(1986年)4月、桜がほどなく満開になる季節に株式会社ウララネオンに入社、今から28年前のことである。25歳の春、ここからがサイン屋稼業の始まりになる。
ネオンから芸人へ
  切っ掛けはMuseum of Neon Art(MONA)、ネオンアートの妖艶さに心引かれ魅了され、これが引き金になり時間を見つけては図書館でネオンアート(写真)を見ていた。よくある話だがそのうちに自分でも手掛けてみたいと思うようになる。そうなるとネオンはどうやって作るのだ?となる。いろいろと本を探してもネオン発祥の由来はあるものの、どうやって作るのかは分からなかった。作り方を知るには「ネオン屋」に入れば分かるのではないか? 頭の中はこれ一本に絞られ、そして手にした求人誌に載っていたのが単刀直入な名前の「ウララネオン」。迷う余地はなかった。
  求人内容は営業の募集だったが、お構いなしに面接に出向いた。迎えてくれた役員の方々にのっけからネオンを作りたいと話を切り出した。「営業募集だけど営業はやりたくない!」「ネオンが作れなければデザインをやらせてくれないか?」変な奴が来たなと思われつつも、何とかお願いして工事部に入れてもらうことに相成った。
  これでようやく念願叶ってネオンアーティストの第一歩を踏み出すことになる筈だったのだが…。
  すこし話を戻そう。「ネオン」と社名についていただけで選んだ会社だが、そもそもウララネオンがどんな稼業の会社か知らなかったのである。いやはや呆れた話である。知らなかったことがある意味でいろいろなことに興味を注いだ。見ることすることが新鮮で面白かった。おかしな話だが月給もその一つだった。月々同じ給料がもらえることが嬉しく思えた。初めて頂いた給料が16万、今でも明細を大切に持っている。
  この仕事をして気付いたこともある。高いところが苦手…いや苦痛に近い。当時の屋上足場では、まれに養生ネットが無い部分もあった。ネットがあるのと無いのでは気持ち的に雲泥の差である。縄ばしごも多用された時代だ。しかしながら苦手!苦痛だ!と言っていたら仕事にならない。足場に関してはネットを全面に張ってもらうことで解決した。縄ばしごは少しずつ慣れる努力をするしかなかった。先ずは低い場所からそして高い場所へと。命綱などしていない、手を滑らせたら終わりだ、怖さのあまりに腕の筋肉が硬直してその場から動けなくなることは幾度もあった。
  でもそんな怖さとの葛藤を緩和してくれるものがあった。それは大層な表現になるが観衆である。ほとんどの看板は一番目立つところに付いている、そこで縄ばしごを降りて作業をしていると下の方から「エー凄い、何をしているのだろう?」と何人かの女の子の声が聞こえた。オ〜見られている。その声がまるで声援のように聞こえ、親指をたてて挨拶すると今度は笑ってくれた。誰かに見られている、なんだか楽しくなって気持ちが和らいだ。大袈裟だが芸人にでもなった気分がした。こんなところは実に頭が単細胞に出来ていることで助かり、それからはどうだ格好いいだろう!と、街行く人を観衆だと思って縄ばしごを降りることにした。
仲間とお金
  そもそもネオンアートへの興味だけでどんな会社か分からずして入った会社である。新鮮で面白いのは始めの内で長続きしないかと思いきや、仕事以外が実に楽しかった。今から思えばこれがなければ今がないと言っても過言ではないかもしれない。且つこれがあったから仕事も自然に苦と感じることもなく打ち込めたのであろう。そしてやがて「ネオン屋」から「看板屋」に目覚めて行くのである。なにせ単細胞で楽天的に小さじ少々の負けん気はここで最大に活かされたわけだ。
  周囲には近い年齢が多くいたし、中でもお気に入りの可愛い女の子がいる。こうなれば仕事は二の次で会社に向かう足取りは軽やかになる。ホントによく仲間と遊び呑んで語った。そんなことが出来る環境、そして甘んじて受け入れてくれる寛大さがそこにあった。
  ひょんなことで車を買うことになる。若気の至りと言った方が格好はいいのだが、何も知らなかったと言った方が正解だろう。家の側にディーラーがあり、何気なく入って車を見ていると当り前だが販売営業マンが傍らにきてセールスの開始となる。あれよあれよと立ち話からテーブルに座り商談となり、気がつけば契約成立。BMW3s。なんと360万円、加えて法定点検は30万。月給20万にして60回払いが翌月から始まることになる。家賃と月賦の返済、これを凌ぐ方法はひとつ。いささか発想が貧困だが夜勤作業で残業代を稼ぐ。まさに若さの骨頂でその後を凌ぐこととなる。
  楽しい仲間がいる、加えてお金も必要になった。邁進したネオンアーティスト「ネオン屋」を目指した姿は消えていたが、目指す目標はすでに見えていた。…気がした。
俺たちがやらなくて誰がやる
  「小さじ少々の負けん気」とは何か。熱しやすく冷めやすい質だからこそ、少々が大きな効果を醸し出した。最初に大さじいっぱいにしてしまうと完全燃焼してあとが続かない。だから少しずつ、冷め掛けたらまた少々の負けん気を投入して熱を持続させる。その負けん気の根源は「誰がやる」だった。持続させるのは難しいことだ。仕事の話で呑むとしょっちゅう口にしていた。それはみんなに言っているのではなくて、自身に言い聞かせるように…お前がやらなくて誰がやるんだと。のちに「誰がやる」は大きな壁にぶち当たる。
転機
  これまでに工事部そして会社の中枢を担ってくれた部長が他界された。そして工事部を託された。25歳で工事部に配属されてから14年目のことである。それまで現場一辺倒だったありさまから、工事部を仕切る仕事に一変した。現場段取り積算見積に帳簿整理。やることは山程あり、そのほとんどを経験したことがない自分がそこにいた。だが仕事は待ってくれはしない。覚えている時間など無く、どの様にさばくかが問われたのだ。この経験はその後の仕事に大きな自信と変化をもたらした。
  残念なことだがしばらくして会社の経営方針が変わったことで、工事部を解散することが決まった。部門を“いや部下を”守り切れなかった自分に不甲斐無さを感じた。「お前がやらなくて誰がやる」頭の中で考えても答えは出てこない程にあまりにも大きな壁だ。打開する勇気が欲しかった。独立を決意した。それを後押ししてくれたのはやはり仲間の力だ。これ以上にない勇気が壁を打開した。
会社の設立
  社名をどうするか書き連ねあれこれ悩んだ。多くは単語をふたつ合わせた造語、その中にはNEXTとOSW(osawa)を合わせてNEOS(ネオス)もあった。意外とお気に入りで有力候補だったのだが、最終的に思いを込めたNEXUSに決めた。そして「ウララ」の暖簾をもらい受けてウララネクサス[現ユーネクサク]が誕生したのである。時をまもなくして我が家に長男が誕生した。子供は生まれて直ぐには一人歩き出来ない。親の手が必要になる。NEXUSも子供と一緒で、まだ地に足が着いていない状態での試行錯誤の始まりになった。学年で例えればユーネクサスと長男は同級生、今年で11歳になる。
  最近ちょっと生意気になって、自分を主張するようになってきた。反抗期を過ぎていずれ独り立ちするのだろう、おのおのの“その時”を楽しみにしている。
絆nexus
  未明に枕元の携帯電話が鳴った。撤去作業中に事故が起きた一報だった。直ぐに現場に駆けつけるとそこは消防隊で埋め尽くされていた。作業員の安否が心配だったが、幸いにして全員の無事な顔を見ることができた。この事故は様々なところに迷惑を掛けてしまうが、事故処理の対応はいろいろ人に助けられた。恩に着せるようなそぶりなど微塵も無く、当然のように助けてくれた。人と人の絆を強く感じ受けとめさせられた。思いを込めて付けた社名(NEXUS)にも助けられたのかもしれない。
繰り返さないこと
  多くは失敗や事故などの経歴は話したがらない。でも知らないで同じことを繰り返すことは非常にむなしく、そして悔やまれる。目を背けずにしっかり見返すと、そこには必ずして原因がある。それは意外と些細なことが発端であり、簡単な手筈を整えれば防げることが多いことに気付く筈だ。だからこそ話さなければならない。そして同じ失敗をすべきではない。
これからの人生
  切っ掛けからは少しそれたが、人生の半分以上を生業としてきた看板屋。多くの出会いがあり沢山の人達に支えられ、時には押されて今があるに違いない。ひとりで歩くことは寂しくつまらぬことに思えてならない。ならば一緒に歩み一緒に見て楽しむことが一番大切なことに思える。迷い悩むことはこれからも尽きることはないだろうが、仲間がいればきっと切り開いていける事を今までの人生で教えてもらった。教えてもらったことは教える事で返していきたい。教え方は不器用だけれど精一杯の気持ちをこめて伝えようと思う。
  でも何せ単純で単細胞はこれからも相変わらずかもいれない。思い立ったらまっしぐらだけれど結果はとんちんかん、いやはや歳を積んでも変わらないところは多いと気付く。
謝意
  28年間の中では此畜生と怒り心頭な時もあったが、こうして思い返してみると何故あんなに怒っていたのかと改めさせられた気持ちになる。言うは易く行う(活字)は難し。
  書くからこそ思い出すことが沢山あり、振り返ることは初心を顧みる切っ掛けが出来たことに心から感謝します。



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