弊社の創業は、昭和28年祖父が起業し、オイルショック、バブル崩壊等激動の時代を乗り越え、当時無かったネオン点滅器等様々な電光看板の基を世に送り出し一時代を築きあげました。
営業努力により実績、信頼を得て皆々様のお陰もあり今年で創業62年を迎えました。
とは言ってもそんな苦労も知らない私が、社員である父が高齢になり引退する前に意思を継ぐべく入社したのが、9年前40歳になっての事です。
右も左も解らない中、飛び込んだこの業界。子供の頃父親の多忙な仕事ぶりを見続けたせいか、最初は看板業界での仕事を考えず工業系の営業職に就きました。今となっては、もう少し早くこの世界に身を投じ色々教わっておけば…と思う日々。
休日に時々会う父との会話で当時の開発秘話、苦労話、失敗談を聞く機会が多くなり、この仕事に携わり大変さが分かる様になってきました。
そんな中面白かったのが、今では青色LEDのお陰でRGBが簡単にPCで制御出来、変幻自在に色が操れる様になったが、80年代後半は赤、緑、青のネオン管を組合わせ開発したネオン点滅器で色を制御し、絵・文字を流してた事や、中でもその数年後の90年初頭には、赤色と緑色のLED球と青色ネオン管を200角の升に内蔵し、高さ8.7m×幅35.4m+8.8m(約385u)になるものをユニット方式にし、トラック25台で搬入し2晩で荷揚げし組み上げ、電源はブスバー配線システムを採用し工期を短縮し、銀座にある某大手ビル屋上に巨大な電光情報板を掲げたという事です。
当時はバブル景気で、今となっては夢のまた夢。現在そのビルは再開発で解体され、今では写真でしか見る事が出来なくなり残念です。私といえば、入社したての勉強と目の前の仕事と向かい合う日々を過ごす中、水勾配ながらも景気が良くなってるのかな?と思った矢先、影響が無いと思われたリーマンショックが不景気の波となり、押寄せ景気が戻らないまま、その数年後には東日本大震災の影響による超絶不景気…。街中の照明が最低限に灯され、看板照明は消され、計画されていた工事は見送りになったりと、先の見えない思いをし、不安な日々を過ごしたのは昨日の事の様に覚えています。
震災による復興は思った様に進みません。原発事故から電力不足の問題という事から、節電に対する意識も全国的に一気に拡がり、国が率先しLED普及活動した事もあり、出始めの頃を思うと今では価格も据え置きになり、街の至る所でLED照明を見かける様になりました。身近な電球、蛍光管も今はLED球、LED管の照明に変わってきている状況です。
看板の照明も同様にネオン管、蛍光管に替わりLEDモジュールやLEDシート、LED管、LED導光板等となり、照明自体も多種多様になり予算さえあれば出来ない物は無い様進化し続けています。その便利さからか、この数年既設ネオン看板の修理は時々ありますが、新規でネオン看板を製作施工していません。そんな中、先日この春に大型ネオン看板の撤去工事の依頼があり、請け負いました。その看板は弊社が約17年前に施工した看板で、建物の老朽化に伴い、建物解体の前工事として看板解体撤去の工事です。
新しく生まれ変わる建物には媒体看板設置の計画は無く、非常に残念な話です。場所が駅だけに、宣伝だけでなく、夜には周囲を明るく照らし街を行き交う人々を出迎え見送り、街の目印、活気、活性化になっていただろうネオン看板がひとつ灯を落とします。
全国的にネオン業界が正に直面している、ネオン看板が消えて行くという問題でもあります。撤去理由も様々で、今までは看板の老朽化や不景気によるクライアント離れによる媒体撤去でしたが、大震災後から建物耐震不足、建物や設備の老朽化により建替等の理由に変わり、不景気によるものと異なるカタチで看板撤去という2次的?被害を看板業界が受けている様に感じます。
また、この数年風雨が台風並みになり、場所によっては竜巻が起こり、甚大な被害をもたらす環境に変わってきていて、自然災害には到底適いませんが、被害ゼロを目標にどんな看板も何年かに1度は徹底した調査や検査を提案、推進しクライアントと共に安全管理構築も踏まえ業界全体で考えて行かねばなりません。
また景観条例という街並みと看板との共存を考えないといけない事等、まだまだ看板業界に色々なものが取り巻いており、只の道標的看板で無い環境へ変化しています。
規制や撤去の話が多い中、唯一期待しているのが国家プロジェクトのカジノ建設。いつになるかわかりませんが、まず2都市誘致が検討されており、ラスベガスのカジノの様な華やかに彩るネオンサインが、ホテルや商業施設に取付られ、これを期に将来的には主要都市に展開し、ネオンサインが全盛期の様に復活し、海外からの観光客が安心し寛げる大人の社交場作りに携わる事が今のネオン稼業の夢。
夢のまた夢になりません様に。
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