『深層を盗むか、表層を盗むか』
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2020年の東京オリンピックぐらいいろいろケチがついていることはないだろう。私も開催決定当初はデザイン界での応援団としてスピーチなども行ったが、今はどちらかというと開催しなくもよい、という気持ちの方が強い。東京での開催は、今更やめるというわけにはいかなそうだが、これだけ問題が重なる状況は、開催しないことが今後の日本のためだという天の啓示ではないのかとさえ思えてくる。国立競技場の設計に始まり、エンブレムの模倣、果ては東京都の案内ガイドのユニフォームのダサさまで、ことデザインに関わる問題が大きいのは、デザイン界にとってきわめて由々しきことである。もっとも世界的建築家のザッハ・ハディドのデザインとユニフォームのデザインとを同じ土俵で語るにはあまりにもスケールが違いすぎて、ザッハに対して失礼だけれど。 デザインを生業にしている一人として感じるのは、近年の日本のデザインレベルの低さ、デザインの商品臭さ、加えて受け狙いのお子様感覚である。今時のデザインはどちらかというと大企業が生み出すものになってきており、大衆受けして購買を促すための手段にすぎず、消耗が激しい。車や家電、家具、服、書籍、パッケージ、様々な商品の宣伝など、何でもかんでも「売れればよい」のデザインだ。これは、建築の世界でも同じで、ハウスメーカーもマンションメーカーも、デザイン的理念よりも商品の表層の仕上げやパターンを変える小手先の技をデザインとして購買を促している。 デザインの発信側にしてもおかしいところはある。グッドデザイン賞は今やほとんどの国民が知るところだと思うが、その中にロングライフデザイン賞という部門がある。先日HPを見ていたらその賞の候補として工作に使う某社の糊のチューブや容器が出ていたのには驚いた。確かにロングライフではあるが、ただ長くそのままであるというだけで、ロングライフデザインの候補になるのはいかがなものか。もちろんデザインが優れていれば問題はないが、とてもそのようには見えない。パッケージデザインの業界は企業色が非常に強いことから、売らんかなのモデルチェンジのオンパレードの中で何十年も変わらないということ自体が貴重なのかもしれないが、この糊に関して言えば単純に市場に於いて競合がないからそのまま時間が経っただけに過ぎない。ロングライフ商品であってもロングライフデザインではない。それなのにどこかで大衆受けしようとしている姿勢が読み取れる。 デザインということばの使われ方がやはり気になるのだ。今朝のTVでもJR九州の車両について、豪華さやすばらしさを伝えていたが、あれはデザインではなく客寄せのプロデユースといった方が正しい。(プロデユースという意味ではきわめて成功している例だ)マスコミもデザインすることの意味を一般の人々が取り違えないように使ってほしいと思う。 ところで唐突だが、言葉の意味の分かりやすい変化として、「不倫」という言葉を挙げてみる。不倫とは、本来は死ぬか生きるかの一大事であって、命をかけても不義密通するという切実な情念をあらわす言葉だったが、最近は、そんじょそこらに転がっている安っぽい出来事を指すようになっている。デザインについても以前は、アカデミックな教育を受けた者が、エネルギーをふり絞って生み出した産物であり、あこがれの対象、そして崇高な美そのものであったと思う。少なくとも亀倉雄策のオリンピックポスターの時代にはそれが感じられる。ところが今では、誰でもパソコンで線を引き、色を付ければそれがデザインであるというような安易な概念にとって変わった。不倫とデザインを比較するのもおかしいが、どちらも昔と今のありようが天と地ほども違う。言葉は生き物だから定義が変わっていくのは仕方がないとしても、共通して変わってしまったのは「命がけであるかどうか」ということ。お手軽ではいい文化は生まれない。 インターネットの普及によってさまざまな情報が即座に手に入る現在、オリンピックエンブレム事件に見られるように、モノの作り方が変化していることも理解できる。私とて、今更手書きで何も見ずに書くことがデザインだと思っているわけではもちろんない。それではただのひとりよがりのアナクロである。様々な情報は知って損はないし、あふれる情報の中で、本来自分が進むべき方向、あるいは、優れたデザインとは何かをさぐるために、それらの深層に流れる理念や精神を読み取り、「命がけ」で自分のものにしていくのが本来のデザイナーの姿である。深層は盗むが、表層の姿かたちは盗まない。いや、たぶんデザイナーであれば表層は「盗みたくもない」だろう。真のデザイナーにとってアイデアや造形表現が他人と同じであることは耐え難いことだから。
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