『灯りに託す復興への願い』
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2011年の東日本大震災からすでに4年半、私たち公益社団法人日本サインデザイン協会(SDA)の会員はデザインの立場から、被災なさった方々に何ができるかを考え様々な活動をしてきました。“One for All, All for One”をコンセプトにしたこの活動はハートプロジェクトと名付けられました。このことは以前NEOSの127盛夏号(平成23年8月1日発行)に報告したので覚えておられる方もあると思いますが、その活動は以来ずっと続いています。 最近の活動をご紹介したいと思います。 仙台市の南に岩沼市という町がありますが、ここはその北にある名取町、南にある亘理町とともに津波の被害が大きかったところです。当時のテレビ報道で、真っ黒な津波が河を遡って、宮城の穀倉地帯、住宅街を呑み込んでいく信じられない光景を覚えていらっしゃるかと思います。まさに自然の猛威が、姿を黒い魔物に変えて、襲いかかっているかのようでした。 その岩沼市の中心部にある竹駒神社で震災の一年後から三年にわたって毎年続けられている「灯のみち」というイベントがあります。この神社は承和9(842)年に創建された由緒のある神社で、東北地方で一、二を争うほどの初詣客が訪れることで知られています。幸い海岸からだいぶ内陸にあるため直接の津波の被害は免れましたが、ここで震災の復興を願って、SDA主催のプロジェクト「灯のみち」が今年も10月11、12日の二日間開催されました。 市内の小学生200人と協会会員が描いた絵入りの行灯60個が参道の両側に並べられました。桜の花やハートプロジェクトのシンボルであるハートマークなど様々な絵とともに「復興への道」、「笑顔広がれ」、「ひとりじゃないみんながいる」、「海と一緒に復興しよう」、「がんばれ日本」など多くのメッセージが闇に浮かび、訪れた人はひとつひとつを眺めながら犠牲者の鎮魂と被災地の早期復興を祈っていました。 さてここからがムダ話、もともと行灯というのは江戸時代の代表的な照明で、道行のための灯りというのが本来のものでした。しかし道行の灯りが提灯にとって変わられるにつれて、行灯は室内に置くもの、壁に掛けるものと変化して行きました。 行灯は竹、木、金属などで作られた枠に和紙を貼り、風で光源の炎が消えないような構造になっています。光源は主に灯明で中央に火皿をのせる台があり、石もしくは陶製の皿に油を入れて、木綿などの灯心に点火して使用する仕組みになっています。ろうそくを使用する時もありましたが当時は高価であったため、主に菜種油などが使用されたようです。庶民はさらに安価なもので、燃やすと煙と異臭を放つ鰯油(魚油)などを使っていたそうです。 因みにこのたびの竹駒神社では光源にろうそくを使用しました。いずれにしてもこれらの行灯は、照明器具とはいっても現在のものとは比較にならないほど暗いものです。60ワット電球の50分の1程度の光量に過ぎないのですが、かすかな風にゆらぐ行灯の明かりは、明るくするというだけではなく人々の心に温かなものを呼び起こします。きっと現代のネオンの灯りに似ているかもしれません。 竹駒神社の参道につくられた「灯のみち」、ろうそくの灯りでともされたその道を歩く時、人はそこで震災で別れ別れになった人々の鎮魂を祈るのでしょう。それはちょうど精霊流しと似通ったものかもしれません。 千年前、平安時代にこの地方を襲った「貞観の大地震」について菅原道真らによってまとめられた「日本三代実録」に次のような記録が残されています。 『5月26日癸未の日、陸奥国(今の多賀城)で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走し互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・壁などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯(津波のこと)が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった』 実にこの度の東日本大震災を彷彿とさせる記述です。この貞観の地震をきっかけに京の都に多くの流民が入りこみ疫病が流行しました。鴨長明の方丈記によると疫病で野垂れ死にした人の亡骸で鴨川がせき止められたそうです。 一説によると京都の祇園祭はその疫病退散を祈願した祇園御霊会が始まりだと云われています。 そういえば宵山の駒形提灯は形や大きさデザインも様々で、人々の思いがこもっています。 竹駒神社の「灯のみち」も千年後には大きな鎮魂の祭になるかもしれません。 |