宮本輝の小説世界を旅する |
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NEOS編集顧問・日本サイン協会相談役 小野博之 | ||||||
今年の7月、まだ梅雨が明けきらぬ、どんよりして蒸し暑い日、私は年一回の恒例となっている郷里高岡に旅した。用件は半日で済むが、レンタカーを借りた。翌日から一泊泊まりで富山湾に沿ってドライブするつもりだった。富山、岩瀬、滑川、入善と回り、最後に入善と宇奈月温泉の中間の黒部川にかかる愛本橋を見て帰る計画だった。 昨年の春、私は宮本輝の「田園発 港行き自転車」を読んでいたく感動した。その小説の舞台がまさにドライブで廻るつもりの土地だった。沢山の魅力的な登場人物が縁という糸に結ばれ物語が展開していく。まさにロードムービーのような趣だが、そこに京都が加わり、その土地土地の人情味豊かな風土も濃密にかかわっていく。 宮本輝は小説家としてデビユーした翌年「蛍川」を書き富山市を舞台とした。この作家は富山県をこよなく愛していることが物語の端々に読み取れた。作家は9歳の幼少期、父親の仕事の関係で1年間だけ富山市の豊川町で生活している。その時の体験が小説の中ににじみ出ているように思った。「田園発 港行き自転車」は昨年単行本化される前に「北日本新聞」に連載されたものだ。私はこの小説にもそんな富山の情景描写と人情味豊かな物語を期待した。小説はそんな期待をはるかに上回る感動を与えてくれた。懐かしい富山弁が全編に出てくる。その物語の舞台をつぶさに見て回りたいという願望が生まれた。 実は私は昨年の4月に帰郷した折、その夢を果たしたいと思い、滑川に一泊した。翌日富山に戻り、レンタカーを借りるつもりだった。しかし、当日は残念なことに疲れが出て富山の水墨博物館を見て帰京してしまった。その夢の実現を果たすのが今回の旅の目的だったのだ。 富山市は主要登場人物の夏目海歩子が美容院を開いている町だ。富山は私が小学生のとき、一度だけ社会科見学で訪れたことがある。富山の新聞社を見学して帰ったが、小さな城下町高岡で育った私には大都会という印象だった。 絵本作家香川眞帆と、出版社の友人寺尾多美子の自転車の旅はここからスタートする。岩瀬は小説では通りすがり程度の扱いで、富山県のガイドブックにも載せていないものが多いが、私には興味深かった。ちょうど昼近く、カンカン照りで人影はほとんどなかったが、かつての廻船街で風格のある建物が並ぶ。街並はよく整備され、銀行も昔の建物を再利用した店構えなのが印象的だった。ここで腹ごしらえをしたいが、食事のできる店がなかなかない。やっと1軒、蕎麦屋らしくない古風な店構えをみつけてうまい蕎麦を食した(写真@)。 次の訪問地は滑川だ。物語の夏目海歩子の実家がここにある。 賀川眞帆の父親は15年前、この滑川の駅の改札口で急死している。駅は小説に描写されたものとは違うようだが、その後建て替えられているだろうから当然だろう。滑川は昨年一泊したので、ほたるいかミュージアムを含めて大体のところは見物している。そのとき宿泊した旅館は海際の「宿場回廊」のすぐ近くだったから、その堤防沿いの狭い街道も一巡した。偶然だが海歩子の家はちょうどそのあたりのようなのだ。隠れた歴史が秘められたひなびたたずまいだ。
そんなわけで滑川は素通りして最後の訪問地入善に急いだ。宿泊ホテルはまだ決めていなかったから少し早目に着きたかったのだ。駅周辺には旅館らしい建物は見当たらない。ビジネスホテルが一軒あったが、ちゃんと食事も出してくれるところに泊まりたかった。ここからなら宇奈月温泉も近いから電話で2、3当たってみたがどこも満室。金曜日だから無理もないだろう。しかし、ビジネスホテルは正解だった。翌日は薄暗いうちから街のあちらこちらを回ることができた。物語のハイライトとなる漁港にも行ってみた。名水として有名な深層水の湧水も飲んでみることができた(写真A)。 私には滑川はもう一つ、思い出のある街だ。篠田正治監督がこの街を舞台に「少年時代」という映画を撮っている。戦時中、東京から縁故疎開してきた少年と地元の子供たちとの交流を描いた作品で柏原兵三の「長い道」という原作を藤子不二雄Aが漫画化し、それをまた篠田正治が1990年に映画にしている。 私はその映画に出てくる学校前の長い道を見たいと思って6年前の帰郷の折に寄ったのだ。道は舗装されていたが物語の時代に合わせて舗装をはがしたそうだ。場所は滑川の人なら誰でも知っているものと思い、乗ったタクシーの運転手に頼んだら、運転手は知らないという。いろいろ調べてくれてそれらしい道に案内してくれたが、実際にロケ現場だったのかどうかは判然としなかった。代わりに柏原兵三の縁者の家に案内してくれ、飾ってあったこの作家の資料をいろいろ見せてもらった。 翌日はいよいよ愛本橋の実見だ。愛本橋は物語の冒頭に出てくる、真帆の父がこよなく愛した橋だ。車で宇奈月温泉への道をたどっていくとすぐ見つかった。円弧状をした真っ赤な橋でよく目立つ(写真B)。富山平野が山にさしかかるちょうど境目にあった。小説ではこの橋の場所をゴッホの「星月夜」の絵に似た素晴らしい眺めと記していたが、私にはちょっとピンとこなかった。ともかくも私の旅はここで終わった。2日目、3日目ともよく晴れたドライブ日和だったが立山連峰の山並が雲に覆われて見られなかったことだけが心残りだった。 |