「このシンボルマークを掲げるには、相当の覚悟がいる!」
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このセリフは、湯原温泉郷デザイン事業の「第1回シンボルマーク検討会議」での女将さんの一言である。私は、(公社)日本サインデザイン協会中国地区メンバーとして、この事業に約8年携わっている。その女将さんは、湯原温泉郷として統一したシンボルを掲げていくという事は、世間にこの湯原温泉郷の「志」を示す事であり、もし途中でやめるような事になったら、それはこの湯原温泉郷の敗北を意味する。それだけの覚悟はあるのか?と言い放ったのだった。
この一言で、参加者はこれから決定しようとしている事の重大さを改めて認識し、会議の空気は一変した。当然ながら、シンボルマークは、地域の方向性をビジュアル的に具現化したものであるがゆえに、その評価如何によっては地域の今後を左右しかねない。その後、慎重な協議を重ね、「生命力の象徴」として、この地域に生息する「はんざき(オオサンショウウオの方言名)」をモチーフとしたシンボルマークが正式採用され、地域のサイン、ポスター・パンフレットの広報物、Tシャツ・ブルゾンなど様々なアイテムに展開されていく事になった。各アイテムの中でもサインは、朝夕の通勤通学など日常的に目にする為、新しい湯原温泉郷の旗印の定着に非常に効果が高かった。特に湯原温泉の玄関口に位置するサインは、地域のシンボル的な役割も果たし、内外に向けて強烈な印象を与える事ができた。
本来なら、デザインが完成した時点でデザイナーとしての任務は完了となるが、デザインは手段であって結果ではない(つまり現時点では地域活性化に至っていない)という考えから、引き続き、この事業に関わる事になった。湯原事業開始の当初、私は「湯原温泉郷の活性化=湯原温泉郷を訪れる観光客の増加」と考えていたが、事はそれほど単純ではなかった。地域には、観光業以外の住人の方々もおり、また地域区分も細かく分かれている。理想の湯原のイメージ像も人それぞれ、「幸福」の価値観も様々である。会社組織であれば戦略的意思決定も容易なところだが、湯原地域では、合意を形成する事も容易ではない状況だった。そこで、次に取り組んだのが、「景観セミナー」と50年以上続く地域特有の奇祭「はんざき祭り」だった。「景観セミナー」で、共に歩き、共に感じ、共に考える事を通して「思い」を擦り合わせ、「はんざき祭り」では、「ハンザキねぶた」や「はんざき獅子舞」、「道中踊り」等々の催し物を各年代や地域組織で取り組み、その「感動」を通じて地域コミュニティー構築の「素」を作り、地域の一人ひとりが「私は必要とされている。だから、ここにいる。」という自己肯定感の定着を目指した。この取り組み以降、年を追う毎に地域のイベントや催し物は充実し、少しずつではあるが、湯原温泉郷への観光客数が増加していると聞いている。デザインやプロデュースが、その役割を果たし、元々そこにあった地域の力が、うまく組み合わさり、動き出した証なのだろうと思う。
湯原温泉郷は観光を生業にする地域であるがゆえに、「集客」は重要な目的には違いない。それでは、客は何に惹かれてこの地を訪れるのであろうか。「景観」はその地域に住む人の「心の写し鏡」と言われる。美しく魅力的な街並みには何処か凛とした「誇り」のようなものを感じる。「誇り」の源泉は「郷土愛」、「郷土愛」の源泉は「思い出」「人との関わり」、、、、、そして、その源泉は、やはり何処かで、「私は必要とされている。だからここにいる。」という「自分の役割(=居場所)」に繋がっていくように思われる。私たちの仕事は、形あるモノのデザインを通して、最終成果物として、直接は触れる事のできない人の「ココロ」をデザインしているのではないかと思う。 世の中は、刻々と変化し、そこに暮らす人の「ココロ」も変化する。その中にあって、私たちに求められているのは何か?それは、常に傍にいて、その時々に起こる事柄に共に向き合い、共に考え、共にその答えを選択していく事。そして、掲げた「志」を共有し続ける為に、我々は、これからも常に関わり続けていく必要がある。湯原温泉郷が、世の中に必要とされ続ける為に、我々もまた挑戦し続けていかなくてはならない。 かつて、この湯原事業の開始時に、私は「デザインの力で、この地域の人の心を変えてみせる」と意気込んでいた。今から思えば、そこには少し「傲慢」な気持ちもあったように思う。デザイン以上に私自身の「振る舞いのクオリティー」も地域から見られていたのかもしれない。小手先のデザインでは人の心は動かない。自分の持てる全身全霊で向かわなければ、人の心は動かせない。そして、その全部をかけても足りない部分に、自分の力の無さを痛感する。そんな場面が、何度もあった。その度に地域の方々に助けてもらった。この長きにわたる湯原事業を通して、本当の意味での「地域と共に歩む」という事が少しわかったような気がしている。湯原事業を通して、一番変わる事ができたのは、実は、この私だったかもしれない。 |