主題についてのお話をする前に、私上野の学童時代以前のお話をさせていただきます。
私の父上野倖嗣は、東京都北区王子本町に22歳の若さで鉄骨造の建物の設計・施工をする会社を立ち上げ、事業拡大を計り宇都宮市上横田という所に工場付の土地を一部購入し、その他の土地を賃貸したと聞いております。
幼かった為、ハッキリと覚えておりませんが母親からはそう聞かされておりました。長男である私の誕生を相当喜び、息子の為に本気で事業を拡大し、事業継承を真剣に考えていたそうです。私の名前(拓也)も父親が決めたとの事です。開拓の拓です。拓くという意味です。
当然ながら私は二代目を継ぐ嫡男として成長しましたが、前途は大変に険しいものがありました。干支がネズミだからでしょうか?幼少期から大変に落ち着きが無く、見るに見かね呆れた母と祖母が私が小学校1年生の時に4つ上の姉と共に書道教室に通わせ落ち着くようにと企んだのですが、なかなか上手くいきませんでした。
小学校3年生の時には、父が柔道二段だった事もあり自宅から近いところにできた柔道場に通わされ、礼に始まり礼に終わる武道を始める事になりました。柔道の稽古は毎日でしたが一日も休むことなく通ったと記憶しています。小学生柔道大会にも出場し優勝した事もあり、表彰の時にサングラスを掛けた父親が片隅に立って賞状とトロフィーを受け取る息子を見ていた事を鮮明に覚えております。そんな父親がそれから数カ月で他界する事になるなど誰が想像したでしょうか?父がこの世を去ったのは私が小学校4年生(10歳)の時でした。
前文でお話ししました通り、父親には夢がありました。私の兄弟は、上に姉・下に妹の3人でした。父親は3人にそれぞれの会社を任せ自身はグループ会社のトップに立つとの夢がありました。志半ばで力尽きました。父親はやりたい事を全てやり、太く短く昭和の世を駆け抜けて行ったと母や叔父から聞かされました。将来、自身で成れるかどうか分かりませんでしたが、私の夢は「社長に成る事」と父の死後そう考えるようになりました。
それから10数年の歳月が過ぎ26歳の頃に、縁があった会社の社長から声を掛けていただき、レンタル業界にデビューした訳です。
私の部署は営業部でしたので、来る日も来る日も営業訪問を繰り返す毎日でした。今のように、携帯電話もナビも無い時代でしたので、ポケットベルを腰に付けて市販の地図を持ち、常に売上を追うお役目でした。営業と同時に車両管理をする人に換わり、24時間体制を数人の営業マンが1週間交代で緊急時の対応を行っておりました。
緊急時の対応とは、高所作業車の故障やトラブルがあった時に、現場担当者と連絡を取り機種の入れ替えが必要か否かの判断をし、現場に出動し事を収める任務も行っておりました。単に営業だけでは知りえぬ事も会社自体が必要と位置付けた事で、体には大変な負担が掛かりましたが勉強になった事も事実でした。
そういった事を続けることで養われた弊社の営業方針は「お客様・現場第一主義」でした。いきなり前振れも無く弊社オートレントの話に発展してしまいましたが、今までお話しした事が全て弊社オートレントの話であるとNEOSをお読みの皆様にはご理解していただければ幸いです。
弊社オートレントは今年の4月で22期を迎えましたが、22期を迎える事より起業する事が至難の業でした。お客様とノウハウは有ったとしても、作業車を購入する資金が無い。これには困り果てたのが真実でした。裸一貫の男に1億もお金を貸してくれる銀行も商社も有るわけがないですよね?
しかし答えを出すのに要した日にちは短かったと記憶しています。前を向き、自身が現実にやりたい事を考え行動する。今でいうアファメーションですかネ!!作業車の製造販売会社を説得する事が一番の近道と考え、計画書を作成し実際に販売会社の人を紹介してもらい交渉を重ねる。5回6回と回を重ね、粘り勝ちですネ!!やっぱり諦めなかった事が良かったと今はそう思っております。とはいえ弊社オートレントはまだ22期目の若い会社です。折角いただいたチャンスですので弊社の掲げる「お客様・現場第一主義」を実践し、24時間/365日体制で頑張って行きたいと思います。
私が父親から学んだ事は無いかもしれませんし、父親と会話は出来ませんが、時空を超えた気持ちで経営者の端くれとして、父親に少しでも近づきたいとも思います。 丸21年の弊社の営業方針について改善しなければいけない事もあります。しかし、ここまで辿り着くためには、お客様・協会関係者の皆様から賜りましたご協力とご指導があったからこその21年だと思っております。私の幼少時代と、起業するきっかけとなりましたレンタル屋稼業奮戦記を締めさせていただきます。
今後につきましても協会の発展にお役に立てればと思う次第です。乱文に付き読みにくい内容とは存じますが、お許しください!!
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