私はおにぎりが好きだ。もっとも、日本人でおにぎりが嫌いと言う人はそういないだろう。ご飯に具材を入れ海苔で巻いただけだが、いつ食べてもおいしい。冷たくてもおいしいし、ハイキングなど、外で食べると殊においしい。これらの材料をばらばらに食べてもそうおいしいとは感じないのに握るとどうしておいしいのだろう。やはり、人の手が握るからだろうか。
おにぎりのことを英語ではライスボールという。こう表現されるとあまりおいしそうではない。ライスボールは形状を表すだけで握るという行為が示されていないからだろう。“おむすび”もそうだが握るという過程が大切なのだ。
おにぎりを食べると昔のことが思い出される。小学生の時、父は東京でネオン制作の仕事のため単身赴任していた。郷里の高岡に戻るのはお正月とお盆の年2回だけ。帰りはいつも夜行で、母は父が車中で食べるおにぎりを握った。それを子供たちが見守った。焚きたての白米で握ったおにぎりは大きく眩しかった。当時は終戦直後、私たちがいつも食べているご飯は麦ご飯で、時にサツマイモや菜っ葉が混ざっていた。だから銀シャリがおいしそうで食べたかったが子供には一口も食べる分はなかった。おにぎりを握る母の手には遠方に送り出す父の無事を願う思いが込められていたのだろう。
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