「歌が聴こえるわ。ねえ、聴こえるでしょう」
耳を澄ます。細く不確かな、胡弓を弾くような女の声だ。やがてそれは街の音を押しのけて、少しずつ古い唄声になった。
〈ジャズで踊ってリキュールで更けて、明けりゃダンサーの涙雨――〉
みち子は眉を開いて微笑んだ。
「悪い時代じゃないみたいね」
「行ってみるか。君の好きな、アールヌーボーかもしれない」
「帽子がないわ」
「構うものか」
一段ごとに、柳並木に流れる唄声はボリュームを上げ、華やかなネオンサインが視界に現われた。
交叉点に立ったとき、みち子は子供のような歓声を上げて真次の掌を握った。
そこは平和な時代の、輝かしい十字路だった。
大通りには磨き上げられたT型フォードやシボレーが、ひっきりなしに過ぎて行った。ボディに色とりどりのネオンを弾き返し、まるでそうすることが交通のマナーであるかのように、美しい音色のクラクションを鳴らし続けて。
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