ネオン屋稼業奮戦記

 Vol.136
いきなり社長!
    北海道支部 (株)タイセイデンコウ 足森 穣

足森 穣さん  はじめに西日本の豪雨災害で被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。1日も早い復興を心からお祈り申し上げます。
 私は岡山県岡山市で生まれ、学生時代まで岡山で過ごし、その後単身で北海道に渡り、現在は札幌市に在住しております。
 なぜ知り合いも身内もいなかった北海道に単身で来なければならなかったのか、波乱万丈の詳しいお話は、また機会があれば話させて頂きます。
 北海道に来た私は、とりあえず働かなければと、わりと賃金の良かった鳶職を始めましたが、結婚し子供が出来た事をきっかけに、親の薦めもありましたので危険が少なく、しかも好きだった車をいじれると思い修理工場の整備士に職替えしました。
 しかし就職した会社の経営者は高齢で、赤字経営ではないのですが、後継ぎがいない等の理由もあり、止む無く会社をたたむとの噂が社内に広がり、従業員も不安で心配になり何人か辞めてしまいました。
 私も、無くなるかもしれない会社で頑張るよりも少しでも賃金の良い職があれば転職したいと、情報誌を見たり、職安などを覗いたりしていました。そんな時に今の会社の募集を見つけ、ネオンや看板の仕事にとても興味を持ち、すぐに面接をお願いし、就職したのが昭和60年でしたので、33年前の事でした(ちなみに修理工場は噂通り閉鎖されたようです)。
 ちょうど、これからバブルへと向かっている右肩上がりの頃で、弊社も回りの会社も忙しくなり始めている時期でした。
 私も入社当時から、工事部の一員として、忙しい毎日が始まりました。どれもこれも経験の無い仕事ばかりで、戸惑いました。
 基礎工事の穴掘りから始まり、鉄筋加工、型枠大工に左官、あるときは鉄骨加工に切断や溶接、コタコタの作業服に着替えては塗装工事、また足場工事では跳ね出し養生に丸太足場、やっと看板の仕事らしいシートの貼り付け、かと思えば電気工事、ネオン工事、と毎日違う仕事で、覚える事が沢山あり過ぎて、大変だった事を思い出します。
 岡山育ちの私にとっては、真冬に素手でネオン管を赤バインドで着管するのですが、氷のように冷えたネオン管と、手の甲に積もってくる雪には驚きました。
 先輩達は黙々と休憩もなく作業を続けていましたが、それもそのはず着管が終わらないと帰れない、が当たり前みたいでした。
 とにかく好きとか嫌いとか言ってる場合じゃない程の忙しさで、日が変わってやっと終わって帰れて、明日は会社に4時集合。なんて事もしょっちゅうありました。
 てんてこ舞いはしているのですが、毎日違う仕事が出来てとても楽しかった事を覚えています。苦労して完成した看板の点灯試験でのネオン点滅、またぼんやりと柔らかいネオンの光には、心が安らぎ感動した事を覚えています。
 そんな現場で忙しい日々を送っていて20年ほど経った頃に先代の社長から営業に上がるように相談されました。
 現場が好きだった私は、お断りしましたが、「営業に一人欠員が出たので何とか頼む」、「私には出来ません」、 「いいからやれ」、 「無理です」 と、何度か話し合いをしましたが、強引な社長には逆らえず、しぶしぶ営業を始める事になりました。
 始めたのは良いのですが、何かを教えてもらえる訳でもなく、現場仕事しか知らない私には何をどうすれば良いのかチンプンカンプンで、嫌になってしまい、また社長と話し合いです。
 「私よりも営業向きの先輩や同僚もいますし、現場に戻して下さい」、 「もう少しだけやってみてくれ」、「出来ません」、「やってみろ」、「無理です」、「やれ」。  
 当時は社員も沢山いましたし、私から見ても営業向きな先輩もいましたので、どうして私なのか良くわかりませんでしたが、私には営業を続けるか会社を辞めるかの二択しかなかったのです。
 今更会社を辞める訳にもいかず、とりあえずやれるだけやって見ようと思い営業を頑張ってみる事にしました。
 それからすぐに先代社長が高齢になったのと、体調不良を理由に2代目(先代の弟)に代表を譲り、あっさりと退いてしまいました。
 就任した2代目も大変だったと思います、バブル崩壊後の時代を一生懸命頑張っていましたが、会社は順調とは言えない状態だったと思います。
 2代目は丈夫な人で、病院など行かなくても良いというのが口癖なほど元気でしたが、就任されてから大変な時期だったので、ストレスもあったのでしょう、運転中に目の前が真っ白になったようで、交通事故を起こしたのです。
 幸いな事に丈夫な体は傷一つなかったのですが、目の前が真っ白になった事が気がかりで念のため、精密検査を受ける事になりました。
 精密検査で頭部に腫瘍が見つかり、すぐに入院、摘出手術、何とか手術は成功し退院後は会社に戻れる予定でしたが、まもなく再発をしてしまい、今度の腫瘍は手術も出来ない場所だったようです。
 とても悲しくて残念なのですが、あっという間に亡くなられてしまいました。
 悲しんでいる間もなく、会社はどうなるのか?どうするのか?従業員もみな心配していました。
先代にも2代目にも跡継ぎがおりませんでしたので、私に会社を引き継ぐように先代から相談されましたが、社長の器ではない私は、とんでもない話で、丁重にお断りしました。
 先代も自分が復帰出来る年齢でもないので、とても悩んでおり、私が継いでくれないのであれば、会社を清算するしかないとの考えでした。
私にはとても経営者としての自信もありませんでしたが、会社が無くなれば、困るのは私だけではなく、従業員も困りますし、仕事を継続中のお客様にも迷惑がかかるのではと思い、会社存続を考え3代目を仰せつかり現在に至っております。
 社長業を簡単に考えていた訳ではありませんが、平社員からいきなり社長!会社の取締役にもなっていなかった私には想像以上に大変な問題が沢山ありました。まだ信用も何もないのに銀行廻り、お客さん廻り、協力会社廻りと現状のお取引継続のお願い廻りや、はたまた現場作業に必要な免許などは沢山持っていましたが、経営者側の免許等は何一つ持ってなく、慌てて施工管理の免許を取って建設業を維持したり、屋外広告士の資格を取りにいったりと、諸官庁側とのやりとりなど、バタバタしている間に8年経ってしまった感じです。
 2代目、3代目と立て続けに社長交代などでお客様にも多大なご迷惑をお掛けしましたが、それでも良いお客様にも恵まれ、今まで通りに仕事を発注して頂き、この業界に残っていられるのはお客様はじめ、同業他社の先輩方のご指導、会社の従業員の応援などのおかげだと感謝しております。
 まだまだ未熟で至らぬ所は沢山ありますが、人との繋がりを今以上に大切にして、これからもバタバタしながら、精進してまいりますので、宜しくお願い致します。



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