浦上天主堂はなぜ世界遺産にならなかったのか? |
(株)シーエス・エイ 岩波智代子 |
2018年6月30日、バーレーンで開かれた世界遺産委員会では、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が、非キリスト教国の委員の反対意見もなく、「ユニークな遺産である」と高く評価され、満場一致で登録が可決されたそうである。そのあっけなさを聞いて、世界遺産運動をずっと見てきた私は素直に喜ぶことができなかった。もちろんならないよりは、なったほうがいいのであるが、なればいいというものではないだろう。とくにこの世界遺産について言えば、気がつかないうちに、なにか大切なものを置き去りにして、とにかく世界遺産にしなければという怒涛のような思いに流されてきた気がしてならない。 教会の世界遺産運動の始まりは2000年の8月19日と20日2日間、上五島町の奈留町で開かれた建築修復学会五島大会だった。 その学会は1993(平成5)年に設立されもので、国の指定する文化財の修復や保存、活用に携わっている人々が中心だった。2000年の大会は、当時旧五輪教会が重要文化財に指定されたのを期に五島各地にある教会建築を見学して今後の魅力ある町づくりを考えようというものだった。 私は当時智書房という出版社で「大いなる遺産長崎の教会」という写真集を、この学会に間に合わせようとしていた。やっと大会に間に合わせたその本には五島列島はもちろん、長崎市、平戸、佐世保、天草、熊本、福岡と西九州にある明治以降から戦前までの教会がくまなく掲載されていた。 それまでも教会の写真集は数多くあったが、撮影した三沢博昭(故人)は建築写真家であり、彼の写真のほかに教会の歴史、それを建築した多くの神父達、日本人棟梁大工鉄川与助氏に加えて、各教会の平面図など、貴重な資料を豊富に掲載したので、大会の参加者は大変喜んでくれたそうだ。 その時にこんな素晴らしい教会があるのなら、保存をするためになにか考えようということになった。当時五島では過疎が進み信徒の数も激減していたので、このままでは教会が消失するという状況だった。そこでどうせやるならでっかくやろう!「そうだ長崎の教会群を世界遺産にしよう!」と誰かが言い出したらしい。そして大会が終わる頃には具体的な運動を始めようと話がまとまっていた。 その中心人物の一人に26聖人記念館館長結城了悟師も参加して、次のように講演したという。 「設計したフランス人宣教師、日本人の大工、土地の信者が協力して仕事をした。その結果豊かな多様性が生まれた。なかでも二つの大切な点がある。一つは天主堂が建っている場所と自然との一致。もう一つは禁教から復活したばかりの信徒の心の喜びが建物に現れていること」 彼は長崎の教会にこめられた「信仰の自由への喜び」をしっかり感じとっていたのである。 このような形でスタートした運動は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」というコンセプトであった。 しかしその時から浦上天主堂はリストに入っていなかった。私はおそるおそる尋ねた「どうして浦上は入らないの?」と。すると明快な返事が帰ってきた。「あの教会は戦後建てられた新しい教会だからね」。 そうか世界遺産推進派の多くは建築家だから、古い教会建築重視なのだ。その時はしぶしぶ納得したのだが、しかしボタンの掛け違いはここから始まったような気がしてならない。なぜならこの浦上教会こそ、信徒の大きな喜びが込められた教会だったからだ。 旧浦上天主堂は完成するまで三十余年の歳月を要したが、その後わずか20年間しか使われていない。 1945(昭和20)年8月9日11時2分、一発のプルトニウム爆弾が東洋一の教会を瓦礫にしてしまった。その後昭和34年、私が小学六年生の時再建された。だから、だめなのだといわれてしぶしぶ納得したのであるが、それでもなぜという疑問は残った。 その世界遺産運動は2007年に暫定リストに載り2013年には正式推薦候補になるという寸前で、いきなり内閣府による「明治日本の産業革命遺産九州・山口と関連地域」に先を越されてしまった。 そこから長崎の教会群の苦難の道が始まった。その後イコモス(=ICOMOS)から推薦内容の不備を指摘されて「250年の禁教令の時代に特化すべき」であると指導され、政府は2014年の推薦を取り下げて、構成資産の再検討に入った。 「禁教の歴史に特化する」、その時、私のこころは浦上天主堂が世界遺産の構成資産として浮上するのではないかと淡い期待で膨れ上がった。 ユネスコの諮問機関であるイコモスが推薦国に協力するという異例のかたちで構成要素を再検討し、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が新しい正式名称となった。 その間「浦上天主堂もリストに入れて!」叫んでみたが、力ない庶民の悲しさ、浦上が顧みられることはなかった。 私は単なる身びいきで浦上をアピールしているわけではない。ある司教は「歴史を記録するのに建物は重要ではない。その背後にある物語、それが普遍的な価値を持つ」といっているが私もそう思う。であるならば、浦上信徒のもつ歴史がなんで置き去りにされたのだろうか? 大浦天主堂は幕末にフランス人のために建てられた教会で潜伏キリシタンの歴史はない。 禁教時代にパードレの到来を待ちわびた浦上の信徒たちが「あのフランス寺に自分たちのパードレがいるのではないか?」との思いで尋ねて、キリシタン復活という新しい時代を開いたのである。 浦上信徒こそが潜伏キリシタンとして、明治の日本に信教の自由をもたらした原動力だったのである。浦上天主堂の周りには江戸時代の庄屋屋敷の痕跡として石垣や階段が残されている。今後はそれらをきちんと調査して史跡として保存することが、置き去りにされた浦上天主堂の課題ではないかと考えている。 |