サイン屋稼業奮戦記

 Vol.144
ネオン職人ここにあり
    中部支部 (有)真栄ネオン 杉山悦志

杉山悦志さん 今回は取材記事形式でお届けさせていただきます。お話を聞いて下さったのは日本街路灯製造(株)取締役工場長 加藤高久です。
  *同社デザイナー伊藤綾音さんのレイアウトをベースにさせて頂きました。

 代表取締役社長として会社を営みながら、自らネオン職人としても活躍中の杉山悦志氏。杉山氏は1960(昭和35)年、愛知県名古屋市生まれ。愛知大学卒業。ネオン職人である父とそれを支える母のもとその姿を見て育つ。また父の同業者との仕事だけでなく、家族ぐるみでの親交も深く、自然な流れで家業を共にすることに。
 数少ないネオン職人のひとりとして、愛知県名古屋市の繁華な場所にある工房で、今も日々製品という名の作品を生み続けている。
 現在日本の光源の多くはLED。ネオン管は現在1社からしか買うことができない代物のよう。ガスの色と管の色…と、こういったうんちくは私が語るより皆さんよくご存知だと思うので省略。ただネオンサインの時代を過ごしていない者にとってはとても新鮮で、ロマンを感じるエピソードや工房の佇まい。また杉山氏のお人柄の良さや朗らかさが、頑固な職人気質のイメージを解放している。

 ネオン管を長さに合わせてポキンと折るところも見せていただいたが、力むことなく見事に落ちるといった具合。この作業は慣れればそれなりにこなしていけるようで、忙しいときはお母さまもお手伝いされていたよう。
 やはりネオンの魅せどころは曲げ。こちらは、生涯現役だったお父さまである社長が長年手がけられていたそう。その間杉山氏はひたすら電極をつける作業を担当。昔ながらの昭和男児スタイルで、教えてもらうというよりはその背を見て自ら学び覚え、それを自分の中で育て自マニュアルだとかルールとか、いろいろなことに神経質になり過ぎているような今の日本に必要な強さを感じる。

制作中のネオンと完成したサイン

 上の写真は以前初めて工房を見学させていただいたときに制作されていたもの。こんなに間近でネオンの輝きを感じたことがなかった私。発色がほんとうにきれいで素晴らしかった。と同時に、曲げの火力やガスの注入についてのあれこれに恐怖心が募った。可憐なネオンサインだが制作は危険と隣り合わせ。改めて職人技の巧みな手さばきに極めて感動を覚えた。
 ネオンサインの背景にはやはり「バブル」は欠かせないようで、当時は深夜までの制作は日常茶飯事。屋外広告の「ボーダー」という、全面をネオン管で覆って面の色を表現するものを日々量産していたそう。名古屋市内一繁華な場所の交差点を見上げると、自社制作の屋外サインがビルの屋上3面を飾っているなんていうことも。自分の仕事が目に見えて誇れる、まさにこれこそがやりがいということである。
 「バブル」がはじけたその後も引き続き屋外広告の依頼は続いたそうで、不景気でも企業は広告を出すんだなあと当時の杉山氏は感じる。
 その後少しずつネオンサインが減少傾向になってきた1998(平成10)年ごろより、本格的に曲げをはじめる。曲げ方や手法は千差万別だそうで、創業者である父が他界するまでその全てを伝承している。
 制作してきた作品は数知れず、近年での大きな作品は「あいちトリエンナーレ2013」の生きる喜び。中部ネオン業協同組合で協力して制作をした素晴らしい案件。一周まわって魅力を感じずにはいられない
ネオンをつかったアート。杉山氏にはこれからも末長くたくさんの作品を生み出して、人々の感動を呼んで欲しい。

沿革
1950年
 杉山貞治(父)鉄道学校卒業
1954年
 東京ネオン(株)名古屋支店入社
1955年7月〜1956年
 東京ネオン(株)東京支店転勤
1957年1月〜1961年10月
 (株)高橋電工社出向
同年11月〜1965年7月
 東京ネオン(株)名古屋支店勤務
同年 8月 真栄ネオン創業

1983年 杉山悦志入社。
1989年 有限会社に変更
あいちトリエンナーレ2013の新聞記事。このネオンも杉山さん作

 



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