サインとデザインのムダ話

 
トイレピクトから
横田  保生さん 横田 保生 ヨコタ ヤスオ
クリエイティブディレクター 
公益社団法人日本サインデザイン協会参与
上海東華大学非常勤講師
SDA大賞、土木学会景鑑賞など受賞

 間違って異性のトイレに足を踏み入れたことがありますか?
 随分前に、新築のビルを見学に行ったときの話。かなり切羽詰まった状況でトイレに駆け込んだのですが、その中は平らな白い壁でできた空間でした。目指していた壁の凹凸がない!でも、すぐに分かりました。そこが女性用のトイレだと。あの時は幸い人と顔を合わせることも無く出てくることができました。廊下にも誰もいなかったし…。ドアを出て直ぐピクトを確認すると確かに女性の立ち姿が表示されています。
 思い起こしてみると、廊下にあるトイレ誘導サインによってスムースにトイレの場所に到着し、ピクトグラムを片目で確認しながらドアを押したはずでした。そのビルのサインはステンレスの切り出し文字でスッキリと統一されており、トイレドアに掲げてあるピクトもステンの切り出しにヘアーライン仕上げという、当時のモダン建築にふさわしい表情をしています。でも(だから)色が無い。赤と青の色が無いんです。「人間は見たいようにものを見る」というのは真実で、このときも切羽詰まった中で女性の立ち姿の図を男性のものだと思い込んだのでしょう。落ち着いた時であれば図形の識別化は容易ですが、こんな状態のときには色彩による差別化の方が役に立ちます。
 実は日本国内での間違いはこれ一度きりですが、中国では何度かありました。
 私は2000年を超えた頃から中国での仕事が増え、直近6年間は上海に赴任しておりました。20年前の中国のトイレ表示は漢字のみの表記が多く、それも色々な単語を使っているので初心者の私はいちいち単語を同僚に確認したものです。勿論ピクトグラムも使用されていましたが、所謂国際様式では無く、勝手気ままなものです。それまでの中国のトイレの評判は地に落ちていましたが、北京オリンピック・上海万博が開かれるとなってトイレ美化が行われました。改修されたトイレには中国の国家標準ピクトが掲示されるのですが、これが曲者。女子も男子も特定の色は決まっていませんから赤色で表示されることがあります。
 写真は上海の国際展示場ですが、赤い男子トイレピクトは日本人にとって奇異に感じます。もし違和感を持たなかったとしたら外国慣れしているか、既に女性トイレと誤認している可能性の方が高いでしょう。そしてこのように男女区別を赤色・青色で示さないのは世界的に見て一般的なことです。むしろ赤・青で区別しているのは日本の特徴です。敢えて形態だけでなく色彩によっても分けているのは理に適っていると思います。ヒトと一部の猿には他の哺乳類と違って三種類の錐体という視細胞とそれを情報処理する脳が備わっているからです。つまり色を感じることができ、色の違いでものを区別することができるのです。しかも、視覚における認識スピードは、形態に比べて色彩による区別の方が圧倒的に早い。形の認識と色の認識では脳による情報処理の量がかなり違うのでしょう。異なる形態群の中からある特定の図形を探すのは結構時間がかかりますが、その図形に特定の色が塗ってあればヒトはほとんど瞬時に特定する事ができます。トイレピクトの場合も男女の立ち姿を弁別するより赤・青の色の識別をする方がヒトの日常生活にとって楽なんでしょうね。これが習慣化していればなおさらです。だからといって男女区別を赤・青で統一すれば理想的な環境になるかと言えばそうとも限りません。日本人男性の20人に一人は色覚異常であることが分かっており、この場合、特に低明度や暗い環境での赤・青の区別は難しいです。以前、JR東日本のサインシステムをデザインしたときには、専門家の意見を取り入れて男性のトイレピクトを緑色にしたこともありました。あるいはLGBT対応の問題もあります。バリアフリーを目指す現代にあってどのように解決していくか悩ましいところです。
 鉄道や万博のような外国人対応が不可欠な場合は、国際的に通用するピクトが求められます。その場合ベンチマークとなるのは、ISOが規定している公共案内図記号です。私がデザインを始めた40年前のISOのトイレピクトは男女の立ち姿に便器を添えて表記していました。私はそんなもの普段見たこともないので、当時流通している中で最も造形レベルの高かったAIGA(アメリカ・グラフィック・アーツ協会)の図形を流用して人の立ち姿のみの普通のピクトにしましたが、AIGAのピクトはもったりしてるんですね。もっと時代にふさわしいスマートなピクトが欲しい、何とかならないかといつも思っていましたが、いいものが見当たりません。それなら自分で作ればいいとも思えますが、公共案内図記号にふさわしい精度でピクトのセットをデザインするとなると膨大な時間も費用もかかります。個人で処理できる案件ではありません。公共案内図記号はどこかの企業が儲けるためにある道具ではありません。公共財であるというのが私の考えです。道路のように行政サービスとして作られるべきものだと思っていましたし、私も微力ながら活動してきました。そして、これが実現したのが2001年。ISOに登録されJIS化も行われました。役所の重い腰が動いた契機はワールドカップ日本開催だったそうです。そんなものを切っ掛けにしてでも多くの努力のもとに日本の公共案内図記号を創り上げた方々に感謝です。特に中川憲三氏による造形は瀟洒で既存のピクトを完全に凌駕しています。新たなベンチマークが完成しました。JIS化された公共案内図記号は10年を経てアイテムを増やすなどの修正が行われ、直近では2020オリパラに向けての見直し作業も終わり、準備万端ですが…どうなるんでしょう。
 実は開発途上で心配事もありました。JIS化されるとなれば、日本の公共建築などの公共施設にはすべてこのピクトが展開されていくことになるでしょう。公共空間ではそれでいいと思うのですが、避難口への誘導標識のように私的空間にまで押し付けられるのは敵わんなということです。
 制定から20年が経ち公共案内図記号が定着したこの世の中を見回してみると、どうでしょう?webの世界ではアイコンと呼ばれ多様なピクトが開発されていますが、サインの世界はここ数年いわゆる線画ピクトの大氾濫です。軽くて押し付けがなく、いかにも現代的です。だけどとても安易です。一時代前であれば新たな表現として線画ピクトの創造的価値を認めたものでしたが、未だにこれを引きずっているのかという思いの方が強いです。かつてカーデザインの世界では、スケッチをするのにパステルの時代、マーカーの時代、コンピュータの時代というのがありました。曲線から直線へ、そして複合形態へと基本技術の革新によって完成品の様式が変化しました。線画ピクトも烏口で版下を作る時代には難儀な作業でしたけれども、今やPCを使えば簡単です。これも基本技術の変化によるものなのでしょうか。単色であれば製造も安価です。…なんとかならないかなあ。


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