サイン屋稼業奮戦記

 Vol.153
巡り会いに感謝
    中部支部 (株)アイセイ社 木藤哲生

御子柴賢一郎さんきっかけ
 祖父の代からネオンの仕事に携わる家に生まれ、その仕事を引き継いだ父の姿を見ながら育ちました。我が家がネオン・看板を生業としているのに気が付くのに、そう時間は掛からなかったと記憶しています。
 家族単位の規模でしたので自宅は作業場兼倉庫。この環境で暮らす中でボーダー管がぶら下っている姿や、ネオントランス・ネオン部材の段ボール箱が置かれているのが日常の光景でした。
 ぼんやりとした記憶でしか思い出せないのですが、小学生の低学年の頃には休日に仕事に付いていくことが多くなっていきました。その頃は母も仕事の手伝いで父と行動する機会が多く、3人兄弟の末っ子の自分を目の届く所に居させたかったのだろう思います。田舎の店舗系の仕事が多かったとはいえ、今から30〜40年ほど前は現場の基準や雰囲気は厳しくなかったのでしょう。もっとも、着いた先は新築現場よりはネオン修理の現場が多かったですね。
 この頃の一番の思い出は、地元新聞社が主催し、小学校の授業の一環として応募した「父親の仕事」をテーマとした詩が低学年の部で優秀賞をもらったことです。詩の内容の全ては記憶から浮かび上がってはこないのですが、最後のフレーズ『父の取付けたネオンが夜の街に光る』というフレーズは今でも思い出すことができます。あと、緊張した気持ちのなか新聞社の表彰式の場でこの詩を詠みましたね。噛みまくったので恥ずかしかったことを覚えています。
 それから時が経ち、全く違う業種(事務系)へ就職しましたが、早い時期に実家の仕事を手伝うことになりました。今思えば社会人としての心構えが足りなくて仕事をしていたのが、自分へもその会社へもマイナスに働いたのだと思います。その中で小さい頃から身近に感じてきたネオンの仕事に親しみがあり、ネオン屋になったのだと思います。

苦労談
 小さい頃から身近な存在であったとはいえ、ネオンの作業がすぐにできるわけではありません。父と既に仕事の中心となっていた兄の指導を受け、現場作業を覚えていくこととなりました。手伝い始めた時期は年末の繁忙期に向かっている真っ只中、ほぼ毎日が現場へと向かう流れとなり、徐々に寒くなる季節を乗り越えるのに苦労しました。
 ネオンと電気の特性を実務から覚えつつ仕事に反映して行きましたが、長い年月の携わりがあって初めて身に付いたものだと、今振り返ってもあの時の経験が糧になっています。自分の施工したネオンの問題点や、他の業者さんが施工した看板の見習う点など、多くの施工例が勉強となりました。
 仕事も忙しい中でしたが、電気組合の講習に参加し、無事に第2種電気工事士に合格、その後も順調にネオン工事技術者に合格して、晴れて特種電気工事の認定を申請できました。ここまで来て、やっとネオンのプロらしくなってきた感覚が芽生えました。
 小さい頃から生活するうえで、看板業の繁忙期というのを経験上理解しており、自分が携わり始めた時でもそこに変化はありませんでした。その繁忙期に向かう前の9月下旬に、東海地方を連続して台風が襲い、甚大な被害が各方面を襲いました。台風が過ぎ去った後に車を走らせ市内を見て回りましたが、大型の野立て看板が折れ曲がっている状況は衝撃でした。
 翌日からネオン、看板の補修の依頼が途切れることなく入り、そこから年末までの期間は休む暇がない過酷な日々が始まりました。少しでも早急にお客様の看板を元の状態に直したい気持ちがありましたが、普段のネオン補修の数倍は手間が掛かる調査が続き、その合間に新規の仕事を進めて行きましたが、仕事が上手く回らない。この地方の看板業者は全て同じ思いで過ごしたと思います。
 あの年のような立て続けの台風が、何時かまた東海地方を襲うのではと、しばしば身構えてしまいます。

思い出深い仕事
 2000年代の半ばから自分の周囲にもLEDに関する情報が届き始めました。ただ、日々の作業に追われ新しい情報への精査が後回しになるなか、店舗系の仕事がメインな状況では製品単価が高いLED製品は見積り段階から弾かれ、仕事として扱えるのはまだまだ先のことだと思っていました。
 そんな折、名古屋市内の総合病院の新病棟新設現場にLED施工の話が浮上してきました。元は屋上に箱文字を設置する作業、そこから文字の荷揚げも終了して施工間近というタイミングで、バックライト型式にするプランが浮上しました。ネオンのサポートを立てる造りでは無い状態の本体をどうするのか思案する中で、病院側がLEDを要望していると伝わってきました。その時はLEDの選定から施工方法まで全てを兄が担当しており、施工も含めて慣れない製品を扱うのに一緒に苦労した覚えがあります。その時使用したLEDは「シリコンライト」、電源装置は「屋内用 150Wタイプ」を使いましたが、プラボックスに収納しないと屋外で使えない装置本体や、熱対策を考慮して消費電力150Wをフルに使えない制約など施工全般においてネオンとの違いに一種のカルチャーショックを味わいました。
 その後、LEDの隆盛を体験していきましたが、ネオンの仕事を通して身に付いた電気の知識や身構えがあればこそ、LEDを取り扱えたという自負があります。また、ネオンとは違ったLEDの問題点に悩まされることもありました。

巡り合った人たち
 ネオン・看板の仕事を続ける中で様々な出会いがあり、その縁により現在の職場となるアイセイ社に入社することになりました。環境が変わることのカルチャーショックに身構えていましたが、アイセイ社に勤めるようになり様々な経験を積みました。会社組織、仕事の進め方、人間関係などもありましたが、施工の現場から離れることが一番の環境の変化でした。
 主に看板に関わる照明・電気関連の設計・発注業務に携わることとなり、取り扱っている製品を一から覚え直し、その特性などを把握するのに多くの時間を割きました。それに伴い電気の基礎知識が足りていないのを痛感しました。その足らない知識を補うための指導をして頂いたのが、弊社の電気全般の責任者でありました梶野さんです。定年で退職なされるまで1年弱程しかご指導を受ける時間は残っていませんでしたが、引継ぎとして残された資料や快く相談に乗って頂くことにより、今なおお力添えを頂いております。
 最近はパソコンに向かって仕事をすることが板に付いてきたのかな、とふと思う時もありますが、たまにネオン補修の立会や新築現場の配管工事に出向いたりと、息抜きとして体を動かしに社内からいなくなります。ただ、現場作業に対する感覚や体力の衰えを感じているので、周囲に迷惑を掛けない様に気をつけて日々過ごしています。



Back

トップページへ戻る



2021 Copyright (c) Japan Sign Association