サインとデザインのムダ話

 
今を開き今日を生きる。
塩澤 文男さん 塩澤 文男 しおざわ ふみお
アートディレクター、画家、パーカッショニスト
デザイン会社を経営するなかでさまざまな雑誌・書籍のアートディレクションを行ってきましたが、1986年岡本太郎氏にインタビューをした時に強烈な衝撃受け、画家としての活動を始めました。現在は、京都や東京の寺院でまったく新しい表現の神仏画に挑むなど、巨大画を描いています。

 私の画家としての原点は、高校時代に通った看板屋のアルバイトに尽きる。元々学校が嫌いな性分で早く社会に出て独立することが自分に課せられた急務であった。看板屋の仕事は職人の世界とモノを売るためのデザインの工夫が必要であったが、そんな仕事は当時の私に任される訳でも無く、毎日が「売り地」の立て看板作りに明け暮れた。ゴチック専用の平筆で一筆啓上する事が私の職人魂に火をつけた。10日もするとその仕事の全てを任せられ、描いては看板設置して一日が暮れた。

 仕事が出来る様になると先輩職人の家に呼ばれて、酒やタバコを覚えた。日銭は入るし先輩職人に可愛いがられて、勉強が嫌いな分、仕事の覚えも早かった。バイトした金でドラムセットを購入して音楽にも夢中になった。それと同時に私が夢中になったTV番組があった。「レオナルドダビンチのミステリアスな生涯」全6巻、幼少期から亡くなるまでの歴史番組で、自分とダビンチを重ねることで美術そのものを勉強するきっかけになった。当時高校の将来の仕事の選択の欄に迷いなく“レオナルドダビンチ”と書いて担任からの説教をくらった思い出が生々しい。現在でもその夢は連綿と続いており、枯れる事の無い泉の如く制作意欲として湧き上がり続けている。

 看板屋さんの高校生活も終わりを迎える頃、当然大学進学は諦めていたので、看板屋さん以外の仕事を探さざるを得なくなり、友人の伝手で数寄屋橋から日比谷に抜ける地下通路を利用した「数寄屋橋子供ギャラリー」の展示のお手伝いをすることになった。当時の代表理事は、なんと岡本太郎さんで、ここでもご縁があったのですね。太郎さんの逸話は数知れず。ある日子供の作品に順位を付けるために審査会場に現れた太郎さんは、「みんな素晴らしすぎて、順位など付けられない。」と審査を辞退してしまった。私は素晴らしすぎる評価だと感心した。なんとなくそれなりに収まってしまう日本社会に鉄拳を振りかざす太郎さんを私はいっぺんで大好きになった。

 そんな日々を過ごしながらもデザインを勉強したいという願望が日々強くなって来た矢先に、アルバイト編集者とデザイン兼務の募集のミニコミ誌を発見し、猛烈なアプローチをして採用されるも、業務内容は熾烈を極めた。当時19歳、埼玉の実家から片道2時間ほどかけて東京千駄ケ谷まで通って朝8時に出社、午前中に配本の準備と店舗拡張のための営業廻り、午後からは雑誌のためのアポ取りと取材、夕方帰社して記事のまとめとデザイン作業と挿し絵を描き、家に着く頃には日付けが変わっていた。

 とにかく70年代の創造的な機運、何かしら新しい時代の風を感じながら毎日を過ごしていた。山本寛斎、日野皓正、荒木経惟、寺山修司など、時代をぶっ壊してやろうとする連中が沢山出入りしていた。スタッフも全共闘崩れの猛者が多く、殴り合いは日常茶飯事であったが、時間と云うものは不思議なもので2年ほど経ってしまうと情熱を失い去って行く者も数多くいた。その頃の私はまだ血気盛んな20歳であった。事務所との折り合いが悪くなり2年ほどで事務所を去り、1年ほどフラフラと彷徨っていた。美大で学んだ訳でも無く、経験値がさほどあった訳でもないし、就職などとてもじゃないが無理な状況で、フリーランスへの選択肢しか無く、名刺や包装紙のデザイン、友人のスタジオの看板など、ありとあらゆるものをこなしながら自立の道を歩み始めた。

 23歳の時ラッキーにもニューヨーク行きの話があり、スポーツバッグのコーディネーターとしてマジソンスクエアガーデンで10日程過ごす経験ができた。程なくして大手出版社から声がかかり色々なジャンルの雑誌を手掛けることになって、少しずつ生活の基盤が見えてきたのもこの頃であった。おりからの雑誌ブームもあり、仕事はひっきりなしに舞い込んで、程なくして神宮前に小さなデザイン事務所を構えアシスタントを雇い徹夜に明け暮れる毎日を過ごした。大して儲かった訳ではないが、自分のアイデアが採用され、好きにページ構成が出来た事は、今でもアイデアの源となっている。絵画とレイアウト、どう見せてどう構成するかを瞬時に判断できる能力はその頃身に付けた技でもある。
 デザイン会社は徐々に大きくなって広いオフィスに引っ越す様になり、少しずつだが私の嫌いな業界人の匂いを漂わせていたのでしょうね。人間はちょっとしたことで自惚れ、些細な事で自信を無くし、やっと人の痛みが解って、人としての器が出来上がって行くのでしょうね。人を使う様になって分かったことは、実は人に使われながら、会社のあり方などを考えている事だった。しかも自分自身も作業し、毎月の支払いや家賃を心配しながらの生活を40年近く続けていると、さすがに身体が悲鳴をあげるようになった。
 なるべく自然の中に身を置いて現実逃避の世界へ走り出して行くように心掛けている頃、奄美大島で亡くなった画家田中一村との出会いが、より一層奄美に望郷の念を抱かせる様になった。 年に2度3度と通うようになって大自然の中にひそむアミニズムを感じることが出来る様になり、幼い頃の自然に対する眼力を徐々に取り戻してきた。島人との交流も生まれ、泊めてくださる方々もできて島の生活に馴染んで行った。 そんな矢先、洗骨という島の儀式に立ち会い、その日に海に入り泳いでいると海蛇に襲われ首に巻き付かれ、あの世とこの世を繋ぐ不思議な体験をした。このお話は故岡本敏子氏と絵本「海神の姫」としてまとめ公表され大きな反響を得る事となった。その後現代神話第二弾を刊行する予定であったが、敏子さんは鬼籍に入られてしまった。人は生きている間が華であり表現の場であるということを痛感させられた。

 この絵本をきっかけに42歳の私は絵描きとして、とても遅いスタートを切ることになった。何も臆すること無くデザインと絵画の2足の草鞋が私の日常茶飯事になっていったが、何も戸惑いは無く、あたり前にすっとこの世界に入って行くことが出来た。とにかく生きるためにあらゆる仕事をこなし、妙な功名心やプライドが無かった事が幸いしたのだと思う。絵を描くスピードは殊の外早く、枚数を重ねるたびに個展を開催して少しずつだが絵も売れる様になった。
思い付くままにモチーフを変えながら制作を続けて行くうちに、日本の中世の美術作品に興味を持ち始め、やがて日本のとりわけ法華経美術に心惹かれていった。法華経の精神は伸びやかで自由、ジェンダーさえ超える表現の幅の広さに驚かされた。ただ単に写し絵を手本とする様な有様では無く、尾形光琳、本阿弥光悦、長谷川等伯に代表される様に伸びやかで深い作品が数多く存在しており、その殆どの作品が国宝として現存、現在も新たな風を送り続けている。

 元々、我が家は熱心な法華経の信者であり、誕生日に“南無妙法蓮華経”、病気になっても“南無妙法蓮華経”、幼い頃からお題目を耳にしていたこともあって、三つ子の魂百までも、今でもお唱えはどんな場面でも“南無妙法蓮華経”という、今では自身の癖となっている。
 現在、何故仏画を描く様になったかの源泉は1964年、先の東京オリンピックの年だと思う。当時は小学校3年生で、埼玉の片田舎に暮らし、自然の中で遊ぶ事やママゴトなど色んなジャンルの遊びが好きな少年だった。特に川砂が綺麗な古利根川の浅瀬での魚釣りが大好きで、学校から帰ると殆んど毎日の様に釣り竿を持って出掛けていた。ある日突然、その川砂をさらう大型船が入り、根こそぎ砂を運び出し、オリンピックの首都高速の建設のためのコンクリートに変わってしまった。綺麗な澄んだ川は澱み、真っ黒な渦巻きが川を覆い尽くし、土手には残された粘土が山積みにされた。私達は遊び場を奪われ途方に暮れる日々を過ごしていた。当時、オリンピックで生活は豊かになったようだが、同級生が川の深みにはまって命を落としたり、又、同じ通学班の家族が一家心中して、夏休み明けの2学期早々、通学班は半分になり、無言の通学がしばらく続いたこと等、今でも初秋の思い出として記憶に焼き付いて離れない。その頃学校から帰ってすぐに、様相がすっかり変わってしまった河原に降り立ち、野積みにされた真っ黒な粘土で巨大な仏像を作り上げ、泥舟に乗せて澱みに流す行為を繰り返す様になった。そんな噂が学校に届き、母が呼び出され注意を受けたようだが、母は学校の意見を意に介さず私を褒めてくれた。子供なりにやり場のない怒りとして、友人達の弔いのためにやむを得ない必要な行為だった様に今でも感じている。

 還暦を過ぎて、縁あって仏画を描く様になってから深く思い出す事は、いかに幼い頃の感性が自分の一生を支える柱になるか、という事である。努力を重ねるにしても自身の宝モノの様な体験が無ければ継続し難く、それを乗り越えるための手段さえも発見出来ず挫折してしまう方々もたくさんいるのではないだろうか。

 私の恩師、岡本太郎さんは常日頃、無償無目的に生き、今を生き抜けとおっしゃっていた。残された人生、今を生き今日を開くことが、これからの私のお役目と強く感じており、次世代への道を少しでも残せたら本望である。



Back

トップページへ戻る



2021 Copyright (c) Japan Sign Association