失敗なくして成功なし |
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若い時は少なからず失敗を経験しておいた方がいい。言うまでもなく失敗して初めて人は学ぶからである。誰しもあるだろう若気の至り、私がまだ駆け出しの頃の話である。 今でこそ一端の色彩計画家のような顔をしているが、こうした仕事に初めて関わったのは20代の修業時代。テキスタイルデザイナーの師匠が自身のスタジオを建てるにあたり、私は壁面収納や鉄骨階段などの塗装部分の彩色を任された。その時はどこからどうしていいかもわからずおろおろし、ただただ師匠のイメージを具現化しようと必死だった。元々心の思うまま、やりたいように感性で色を決めていくのが師匠のスタイルだったのに加え、そこは自身のスタジオ、どこをどうしようとひたすらに自由だった。せっかくの機会、楽しめばいいものを、色彩計画に論理的アプローチやセオリーを求めていた当時の私にとっては、今ひとつ掴みどころがないように感じていた。 「カラリスト」、当時の日本では耳慣れないその職業を知ったのはこの時である。師匠によれば、フランスのカラリスト(色彩計画研究家)であるフィリップ・ランクロは、街の色彩を調査し、さまざまな建築、たとえば工場や駐車場の色彩計画や団地などの環境色彩を手掛けているという。具体的には工場の機械などに彩色をして、働く人のモチベーションをアップさせる環境作りをしたり、低所得者層が住む画一的な団地の建物を彩色することによりその価値を高め、さらには美しく治安のよい街づくりを実現したりするとのこと。なるほどさすが芸術の国フランス!と感心すると同時に、取り立てて人々が気に留めないようなマイナーな場所に着目し、そこに色彩デザインでアプローチするという手法に大いに興味を持った。 ところで、フランス、色彩といってもうひとつ連想されるのはパリのポンピドゥーセンターという美術館である。ポンピドゥーとはフランスの第19代大統領、ジョルジュ・ポンピドゥーのことで、彼が在任時代に計画されたことがその名の由来である。そこは同市内のルーブルやオルセー、オランジェリーといった従来型の古典や近代アートコレクションとは異なり、現代美術専門の美術館となっているのだが、その誕生には第二次世界大戦が大きく関係している。 ヨーロッパでの戦争が終わると芸術家たちは荒廃したその地を抜け出し、新天地アメリカへ移住を始めた。その後アメリカでは、ポップアートに代表されるマスメディアを取り込んだ絵画や、既製品を用いた彫刻など、アートの概念が大きく変化し、その発信元であるニューヨークが一躍脚光を浴びることとなる。そう、世界のアートの中心はパリからニューヨークへ移ってしまったのだ。焦りを感じたフランス政府はその称号を奪還すべく新たな「現代」美術館をパリに計画、これがポンピドゥーセンター誕生のいきさつである。 そしてこのポンピドゥーセンター、新築の建物についても大いに注目の的となった。なぜならこの建築の設計競技で勝利したのは、当時30代のレンゾ・ピアノ(イタリア人)とリチャード・ロジャース(イギリス人)という2人の若き建築家だったからである。彼らの設計はそれまでの建築と全く異なっていた。具体的には、建物の内側に存在するのが当たり前とされていたエレベーターやエスカレーターなどの昇降設備や、配管や機器などのコア部をすべて建物の外側に露出し、あえて見える意匠としたこと。加えて展示室内に柱を設けず、構造体を外側にして展示室を浮かせる吊り橋のような構造としたことである。これが1977年当時どれだけ革新的な建築であったかは想像に難くない。 建物外部のダクト類は、それぞれ動力、空調、衛生など役割の異なる設備機器ごとに赤、緑、青、白といった配色がなされているのだが、それもこの建築のコンセプトをより強調した表現となっている。ただこのカラフルで機械のような外観は、当時のパリ市民にすんなり受け入れられたわけではなかった。伝統的な街並みにまるでそぐわないと反発も大きかったようだが、それでもこうしたアバンギャルドな建築が実現したのは、やはり政府の意向が強かったからであろう。 長々書いてしまったが、ここからが本題の失敗談である。 月日が流れ師匠の下から独立した私はまもなく、ある企業の自社ビルの色彩計画を行うチャンスを得た。この時は仕事というよりまだ建築家のお手伝いという立場ではあったのだが、とにもかくにも自分の考えを表現できるチャンスと、意気揚々としていた。と言っても、ビル自体のテーマは色彩ではなく、大理石や金属が用いられた要するに自社ビルらしい立派な仕上げで、そうしたハイライトになる箇所に私の出番は全くなかったのだが、代わりにトイレや地下の機械室の中などの裏方はどのようにしてもよいと、それらを任せてもらえたのだった。通常こういった場所や設備機器の色は何も指示しなければ、ベージュもしくはクレイのような色であり、面白くもなんともない。そこで思い出したのがランクロのバックヤードにおける色彩計画、そしてポンピドゥーセンターの見せる設備機器の配色だった。そのビルはそこそこ大きく、地下に設置される設備機器も相当な数になる。そこでさっそくそれらを機能別に、空調関係は空気をイメージする水色、衛生関係は青緑、そして動力はパワーとエネルギーを感じる暖色系のピンク色とし、それらすべてが混在しても美しく見える配色とした。マイナーな場所を活性化させる方針はランクロを、具体的色彩計画の手法はポンピドゥーセンターをお手本としたのである。 さて、その出来上がりは…。 結論から言うと、私の目論見は見事に外れた。室内には3色のハーモニーがきれいに広がると思いきや、実際は空調や衛生に関する機器は数えるほどで、大半を電気関係の機器が埋め尽くす空間だったのだ。したがって扉を開けると、何とそこはピンク色の洪水となっていた…。 「やってしまった!穴があったら入りたい…!」 他の色ならともかくよりによってピンクとは!今思えば設備機器がどこにどう配置されるかも把握していなかったとは大失態である。まぁ、場所が場所だけに笑って許されるようなところではあるが、何とも頭でっかちというか勇み足というか…。 幸か不幸か数十年の時を経たそのビルは取り壊され、私の失敗は表舞台に出ることなく闇から闇に葬られた(笑)。だからこそこうしてネタにもできるが、今でもあの光景を思い出すと、自分の仕事の拙さに苦笑せずにはいられない。 |