ネオンストーリー

 Vol.47
活字メディアより
浅田次郎  パートU  「月のしずく」より花や今宵  文芸春秋刊
 

「あら、あそこに旅館があるわ。ほら」
 芳男は目をしばたたいた。まるで 誰かがこっそりと置いていったよう な紫色のネオンが、すぐ目の前の道 路ぎわに輝いていた。みっしりと咲 きつらなった桜に被い隠されていた のだろう。「旅舘」とだけ書かれたネ オン管の文字が、風にゆらぐ花の切 れ間に見え隠れしていた。

「モーテルですよ、きっと」
「ここにいるよりはましでしょうに」
「そうですね」

 雨の中に歩み出して、二人は同時 に立ち止まった。
「あなた、さつき電話でフィアンセに、 愛してるって言ったわよ」
「ご主人のこと、愛してるわって言っ てましたよね、たしか」

 傘をさしかけると、女は迷わずに 腕をからめてきた。
「嘘じやないわね」
「はい、嘘じやないです」
「じやあ、緊急避難ということで。あ なたを信じるわ」
「僕も、信じます」、

 闇をうめつくした満開の花が、二 人をいざなうように行手を開いた。

 
 

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