「あら、あそこに旅館があるわ。ほら」
芳男は目をしばたたいた。まるで
誰かがこっそりと置いていったよう
な紫色のネオンが、すぐ目の前の道
路ぎわに輝いていた。みっしりと咲
きつらなった桜に被い隠されていた
のだろう。「旅舘」とだけ書かれたネ
オン管の文字が、風にゆらぐ花の切
れ間に見え隠れしていた。
「モーテルですよ、きっと」
「ここにいるよりはましでしょうに」
「そうですね」
雨の中に歩み出して、二人は同時
に立ち止まった。
「あなた、さつき電話でフィアンセに、
愛してるって言ったわよ」
「ご主人のこと、愛してるわって言っ
てましたよね、たしか」
傘をさしかけると、女は迷わずに
腕をからめてきた。
「嘘じやないわね」
「はい、嘘じやないです」
「じやあ、緊急避難ということで。あ
なたを信じるわ」
「僕も、信じます」、
闇をうめつくした満開の花が、二
人をいざなうように行手を開いた。
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