Vol.48 |
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腕自慢ワザ自慢
■ 製作・営業 関西支部 車谷允規さん |
「木彫りサインはもう、なくなってもうてね。 残っているのは、手の小刀の傷だけ。」
車谷さんは、兵庫県で初めて開業した看板屋さんの3代目です。
今の屋号(株)大裕になったのは8年前でその前は「車谷彫刻看板」といいました。 「アメリカからブリキや電気ネオンやガラスが入ってくるまでは、サインといえば“木彫りサイン”が主力やったのですよ」。
創業は明治時代。大阪出身のおじいさんが木彫り看板職人に弟子入りして、これから発展するだろう神戸に進出、開業しました。2代目のお父さんから木彫りを習ったのは16〜7歳の頃です。
当時は、日本酒やビールメーカーの「彫り看板」作りが仕事の中心でした。中でも一番豪華なサインは「金樽」という樽の彫刻で、漆を塗って金箔で仕上げる、華やかで古典的な作品でした。
「中国から伝わり神社仏閣の看板の流れをくむ彫り看板を、ずっと受け継いで来たけれど、僕で終わりですわ。」と少し寂しそう。でも、技術を研究してはじめた、現代のネオンも15年になります。「自社でネオン工事を」という初心の目標も達成しました。
木彫りからネオンの橋渡しの時代を経験した車谷さん。これからも神戸の町を飾り続けます。 |
■ う・ち・の・会・杜 ■ 中部支部 (有)サンワ・ネオン 佐々木哲夫さん |
18歳から大阪の(株)川電さんで修業した佐々木哲夫さん。万博にむけて大阪中が沸き返っている昭和40年代の始め、隣のビルのネオン工事も川電、あっちも川電という時代でした。「朝早くから夜遅くまでかかって、毎日ネオンを取り付けていましたよ。仕事はつらかったけれど点灯したときの感激はやったものにしか分からないでしょうね。この時ですね、俺にはネオンしかないと思ったのは。」
大阪で川電の下請けとして独立後、佐々木さんが30代半ばの時一人で現在のサンワ・ネオンを設立しました。
「こういう時代なのでネオンだけじゃなく、広告全般いろんなことをやっていきたいと思っています。一つのことに精通している職人じゃなくて良い。これからは営業力ですね。」
社員は20代から40代までの3名。
「現場の打ち合わせでもなんでも困ったことがあったら、独断で決めないで3人の意見を聞きます。自分じゃ気づかないことが必ずあるもので、年代も違うのでなるほどと思わされます。
『3人寄れば文殊の知恵』社名のサンワ・ネオン(3っつの輪)のモットーでもあります。
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